不朽の名篇
「第一の魅力は、ソクラテスという唯一無二のキャラクター」と言うだけで、前回が終了。
好きなように語ったあと、ふと我に返ってみれば、その第一魅力のインパクトを超えるものはないかもしれない、と気づいた。
順番がうまくなかったかもしれないが、素敵なところはまだあるので、懲りずに続けたい。
魅力その2)作品舞台が、人類史に刻まれるあの裁判であること。
「哲学の父」とも言われるソクラテス。
でもソクラテスに、著作はない。
極めて稀だけど、こういう人生って、一つの類型としてあるのだろう。)
弟子のプラトンが書いてくれなかったら、偉大な哲人も、一時代の記憶にしかならなかった。
だがプラトンが書いてくれたから、私たちもソクラテスの息吹に触れることができる。
そしてプラトンが書く使命にかられたのは、師の死刑というショックがあったからだ。
尊敬する師が、よりによって死刑になるという事件があったから、プラトンは師を書き続け(次第にその思考も構築され)、それらは後世に残り、そうして哲学が営まれていった。
すなわち、哲学と呼ばれる数千年にわたる人類の営為の発生現場、それを押さえることができるのが、『ソクラテスの弁明』だ。
これを見逃す手はない。
魅力その3)笑いどころがある。
他の作品もそうなのけれど、プラトンは真面目に読んでいると、突然爆笑させられるところがある。
それもちょいちょい、結構な頻度である。
「その次第はこうである―私は偶然、他のあらゆる人が払った総額よりも以上の報酬をソフィスト達に払ったという一人の男に出会った。それはピッポニコスの子カリヤスである、彼は―二人の息子を持っていたので―私は彼にこうたずねた―「カリヤス君、もし君の二人の息子が仔馬か仔牛だったら、(後略)」(同書P17)
仔馬?!
突然、相手の息子を仔馬に例えたよ、この方。
(「例えば何々なら、どうだろう」というのは、ソクラテス&プラトンの十八番だ。)
上記引用は、徳とは何か、教育とは何かを考察している個所だ。
こちらも真剣に思考に乗ろうとしているのに、突然のぶっとんだ例えに、笑ってしまう。
プラトンをいくつか読むとこの飛躍にも慣れて、普通に読み下している自分に気づいたりする。
笑えるのは最初のうちかもしれないので、笑えるうちに思いっきり楽しんでおきたい。
魅力その4)劇作的な最後の格好良さ
文学と哲学のハーフのように感じることが多いプラトンの作品だが、特に『ソクラテスの弁明』の最後はドラマチックで、舞台あるいは映画の台詞みたいだ。
以下は、締めの部分。
「しかしもう去るべき時が来た―私は死ぬために、諸君は生きながらえるために。もっとも我ら両者のうちいずれがいっそう良き運命に出逢うか、それは神より外に誰も知るものがない。」(P59)
完全に決め台詞として、書かれている。
周りの人物たちが、すうっと遠くに退き、主人公のソクラテスに照準があてられる。
背景はゆっくり暗転し、差し込むスポットライトに、一人ソクラテスの姿が浮かび上がる。
そんな想像してしまうほど、この台詞回しは格好良い。
(前回の話だが、こんなところが、ソクラテスを英雄視させる一因なのかもしれない。)
ソクラテスの去り際を、かくも魅力的に描き上げた。
これは、亡くなっていった師への、プラトンの手向けだと思う。
魅力その5)「無知の知」を知ることができる。
いわずと知れた「無知の知」。
これに言及しようとするとめちゃくちゃ長くなるし、この本の魅力というより、プラトンのイデアとセットで考えてみたいので、別にまとめたい(できるのか、少し腰砕け。何となくある考えを、言葉に落とせるのか…)。
ただ、この『ソクラテスの弁明』を読めば、間違いなく「無知の知」に出会える。
ちまたに溢れる名言集的な解説で知ったつもりになるより、プラトンで直接出会った方が、間違いがない。
『ソクラテスの弁明』の魅力、こんなところです。
いや、小さくてもキラリと光る魅力が、まだ他にもある。
これだけ重厚なのに、短編(同書で正味わずか47ページ)、とか。
古代ギリシアの共和制(のちに絶対王政が行き詰った時、人類が手本にあおいだ政治形態)が、当時はやはり、すったもんだやっていたことが透けて見える、とか。
好きなものについての語りは、キリがない。
解説では、学術的作法にのっとった賛辞もおくられている。
「(『クリトン』『ファイドン』と共に)この世界史上類なき人格の、人類の永遠の教師の生涯における最も意義深き、最も光輝ある最後の幕を描いた三部曲とも称すべき不朽の名篇である。」
心からおすすめしているのが、分かると思う。
読んだあと、良い本に出会った幸福感がふつふつと沸き上ってくる、得難い作品だ。
未読のかたは、是非。
ソクラテスって、やっぱり只者ではないと思う。
井戸に向かって、愛をさけぶ
実生活で口にしないことの筆頭は、批判。
身近な人や組織の批判はもちろん(誰にどう伝わるか分からない)、政治や社会の批判も控える(言わぬが花)。
次点が、好きな本。
本が好き、と話すし、おすすめ本の貸し借りなどもするが、一番好きなこてこて文学や哲学については、飲み込んでいる。
「休みの日は、何しているの?」
「本を読んだり、かな。」
「へえ、どんなのを読むの?」
「昨夜は『純粋理性批判』。カントの構想力は、読むたびに惚れ直してしまって。」
「へー…。」
コミュニケーションが分断される、失敗ルート。
「休みの日は、何しているの?」
「本を読んだり、かな。」
「へえ、どんなのを読むの?」
「藤沢周平さん。時代小説とか、読みます?」
これが、正解(だと思っている)。
貸し借りになったとしても、藤沢さんの作品は、読者に寄り添う優しさを持っているし。
(本当に、海坂藩にも、憧れている。
ああ、海坂藩。
この、まろやかで美しい響き。懐の深さと力強さを、ともに感じさせる素晴らしい配字。
名前だけでも、センスの良さにうっとりしてしまう。)
というわけで、外では言えない好きな本の、好きなところを、好きなように語る。
超絶に、面白い。
(放談です。真面目な先行研究は、エベレストほど山積しています。)
魅力その1)キャラクターが立っている。
こんなヘンテコなおじいちゃん、本当に存在したの?と思うくらい、図抜けた人物だ。
『ソクラテスの弁明』は、ソクラテスが死刑になった裁判の記録。
もう少していねいに言うと、裁判でのソクラテスの申し開き(一人称のセリフのみ)。
今から数千年前、太陽きらめく地中海の都市アテナイで日々繰り広げられていたソクラテスの哲学問答は、論破された者たちの恨みを買い、ついに裁判沙汰となった。
裁判は二段階になっていて、①有罪か無罪か、②有罪の場合の量刑争い、となっている。
原告側は、もともとソクラテスの命を奪うつもりはなく、アテナイ追放ができれば十分だったらしい。(上掲書P51)
ただ法廷テクニックとして、死刑を求刑した。
先手の原告求刑「死刑」に対して、後手の被告ソクラテスが「国外退去」を申し出てくれば、たとえ敗訴しても、本当の目的は達せられるから。
ところがソクラテスは、自分への訴状に対して、次のように応える。
①自分は、無罪である。(だって、善いことをしているのだから。)
②自分の量刑はごちそう(!)が適切なのだけれど、譲歩して罰金(だって、善いことをしているのだから。)
結果、死刑。
それを敗北とも、恐怖とも思っていない(だって、善いことをしているのだから)。
このソクラテスの態度、虚勢とか悔し紛れとかでは、ない。
私の書き方では伝えることができていないが、ソクラテスは死刑宣告にあたって、恐怖も、後悔もしていない。
「なぜならばメレトスもアニュトスも決して私を害い得ないであろうから。また実際彼らにそれが出来るわけもないのである。けだし私は、悪人が善人を害するということが神的世界秩序と両立するとは信じないからである。勿論彼はおそらく私をあるいは死刑に、あるいは追放に、あるいは公民権剝奪に処することは出来るであろう。しかしこれらのことは彼やその他幾多の人々には恐らく大なる禍と思われるであろうが、私はそうは思わないのである。それより遥かに大なる禍は、今彼がしていることをすること、すなわち正義に反して人を死刑に処せんとたくらむことである。」(P39)
禍とは、恐れるべきこととは、悪を行うこと。
そう、ソクラテスは、死刑を恐れることが、できないのだ。
当時のアテナイには、弁論で相手を打ち負かすために、詭弁を弄する者たちが、はびこっていたらしい。
小手先の弁論術で聴衆を篭絡し、その称賛や栄誉を得ようとするソフィストたちに、ソクラテスは繰り返し問答をしかけ、その欺瞞を暴いてきた。
詭弁を捨て、愛智に生きよ、と。
弁論を弄び、蓄財や名声の獲得に奔走するのは、正しくない。
正しくないものは、どうしたって、正しくないのだ。
結果、逆恨みというか、ソクラテスに言わせれば、「そうして彼がこの訴状を起草したのも単にこの高慢と放恣とおよび青年の出来心との故だと思われる。」(P32)と、つまり、目立ちたがり屋のおっちょこちょいな青年(いつだって、こういう人はいる)のために、死刑に処せられることになったのだ。
ソクラテスにも、友人や慕ってくる人たちが、当然いた。
驚愕、動揺する彼らをしり目に、ソクラテス本人はケロリとしている。
ソクラテスには、不運をひきうける悲壮感もなければ、運命と対峙する英雄っぽさもない。もちろん、諦観もない。
いや、ソクラテスに英雄性を見出すむきも、あるだろう。
「悪法もまた法なり」などは、きっとそういう心性が生んだフレーズだ。
だがそれは、読み手が自身のロマン主義的嗜好を、かなり強引に投影している(と思う)。
正義や信念に生きながら、殺されてしまう悲劇のヒーローは、歴史上文学上たくさんいる。
でも彼らと異なり、ソクラテスは死刑にあたって、普通だ。
それが、ソクラテスの凄みだ。
善は、善ゆえに、善いし、悪は、悪ゆえに、悪である。
それ以上でも、それ以下でもない。
その言動は人間離れしていて、たとえば文学作品では、とても造形できないだろう。
こんな登場人物がいたら、作品そのもののリアリティが、持ちこたえられない。
(当時の風刺喜劇に描かれたという(P16)。
カリカチュアとしてなら、最適だ。
でもシリアスには、とうてい無理だ。)
偉大が過ぎて、ヘンな人。
「またそれだからこそ私は、終日、到る所で、諸君に付き纏って諸君を覚醒させ、説得し、非難することを決してやめないのである。諸君、この種の人間は容易にまたと諸君の前に現れないであろう。」(P40)
自分で分かっているよ、このおじいちゃん。
数千年後の私たちも、頷く。
こんな偉人は、空前絶後。
二度といなかった。
途方もない傑物が、確かに存在したのだと、書き残してくれたプラトンに感謝だ。
*****
長くなってしまったので、ここで一旦切り上げる。
好きなものについて書くのは、とても楽しい。
だけど、まだ「魅力その1」って…。
お付き合いいただき、ありがとうございます。
張見世
ある社名を聞くと、思い出すことがある。
(今回、下世話な話になります。)
社会人になってすぐのころ、友人(女性)に声をかけてもらって、合コンがあった。
たしか男女それぞれ4人だったと思う。
銀座の、ダウン系ライトに観賞魚の水槽が並んでいるレストランで、いかにも男女の出会いの場的な席での食事会だった。
男性たちは、いわゆるギョーカイ最大手会社の社員とのこと。
彼らの一人が、その美しいお店の手配もしてくれた、と聞いた。
社会人ほやほやヒヨッコの私は、自分もこういう場所にくるようになったのかと、感慨深かった。
事態が動いたのは、乾杯して一通り、場が落ち着いたころだったと思う。
男性の一人が、「ちょっと、すみません。」と携帯を手に、席を外した。
しばらくして戻ってくると、「先輩を呼んでも、いいですか?ちょうど、仕事上がったみたいで。」と言う。
いいですかと尋ねつつも、その人は、すでにこちらに向かっているようだった。
拒否するいわれもないので、女性たちも「もちろん、どうぞ。」と受けいれた。
到着したその先輩は、私たちより一回りは年上と思われる年のころの男性だった。
先輩と言っても、2つ3つ上くらいを勝手に想像していたので、内心驚いた。
そして先輩に向かって、男性たちのヨイショが始まった。
「この先輩、本当にかっこいいんですよ。」
「仕事の仕方も、人生も、僕たちの手本です。」
「先輩みたいに、なりたいですもん。」
「この部署に配属になって、先輩に会えたのが、一番の収穫で。」
男性陣が、盛り上がる。
何が始まっていたのか、みなさんにはわかりますか?
ピヨピヨちゃんには、しばらく事態が把握できなかった。
何を見せられているのだろう、と心中首をかしげていた。
ただ、先輩へのおもてなしを期待されているのは分かったので、ホステスを見習おうと(クラブなんて行ったことないけど)、お酒を勧め、「(お酒に)お詳しいんですね」と称賛の眼差しをおくり、その「貴重な」話を傾聴した(ひねりのない接待)。
そうして、ほほえみながら話をきいているうちに、状況が少しずつ分かってきた。
彼らは先輩への追従と同時に、その人とお近づきになるといかに素晴らしい経験ができるかを、私たちにアピールしていた。
(彼らの「素晴らしい」と当方の「素晴らしい」には、価値の置き所において絶対的隔絶があったけれど。)
つまり彼らは、その先輩に、私たちを差し出していたのだ。
「気にいった娘がいたら、お持ち帰りください。いい娘、そろえてますよ。」
彼らの心中のメッセージが文字になって、白いテーブルクロスの上に浮かび上がっている気がした。
そう、それは合コンではなく、遊郭の店先、張見世だったのだ。
彼らは女衒で、私たちは遊女だった。
びっくりした。
社会に出て早々に女衒の手管を学んでいる彼らも哀れだが、陳列させられている私たちも哀れだと思った。
男女関係にかぎらず、ちょっと…と思うような人に出会うことは、当然ある。
でもその問題は、個人が抱えたもので、困ったちゃんの属性(国籍、所属組織、出身校など)を丸ごと否定するのは、愚かだ。
どんな集団にも、良い人がいれば悪い人もいて、高潔な人がいれば下司もいるものだ。
ただあの時、「この人たち、ヤバいな」と思ったのは、それが個人的なダメダメさではなく、おそらく社風として、女衒行為を(そうと認識せずに)行っていることが、見てとれたからだ。
まだ若い男性陣は、中心にいる先輩の教育の真っ最中であることが、よく分かった。
当時あの会社は、学生たちが就職を希望する会社の十指(五指かも?)には入っていたと思う。
その会社が(おそらく社をあげて)、女衒(というかヤカラというか)を育成していた。
後になって、優秀な若い人材の海外流出が指摘され、国が頭を悩ませ始めた頃、その会社は労働市場でみれば最高条件の若手女性社員をハラスメントで自死に追い込む、という事件を起こした。
いろいろあって、会社は強制捜査をうけ、刑事裁判にまで持ち込まれた。
1件の重大事故発生の陰には、29件の小規模な事故、300件の異常があるというものだ。
そのまま当てはめれば、自死に追い込まれた彼女の後ろには、29人の瀬戸際まで追い詰められた人、300人の心理的傷害を受けた人がいることになる。
亡くなった彼女。
死を選ぶしかなかった彼女の苦しみを思いつつ、「起きるべくして、起きたな」と感じる実経験を持つ人は、数えきれないほどいたと思う。
言っても詮方ないが、彼女が就職を決める前に、私が経験したような下世話ネタでもいいから、話をしてあげる人が、誰か一人でも、いてくれれば。
相手に人権を認めていない(否定するというより、自然体で女性をそして人間一般を、モノとしか見れない)あの感じは、「サイコパス」という言葉さえ、私に連想させた。
彼らとはその場限りで、後を知らない。
あそこで日々薫陶をうけた彼らは、その後どのように社内競争を戦い、どのような価値観を確立し、どのような人生を送っていったのだろう。
あの社名をニュースで目にすると、魚の揺れていたあのレストランが、ふいに脳裏によみがえる。
お魚に罪はない
心身一如
しばらく、体調を崩した。
大したことではないが、やはり時節柄、今までにはない不安があった。
それにしても以前から、ブログを毎日更新する方たちはすごいな、と思っていた。
私自身、現在は在宅ワークで通勤時間がカットされ、家事育児などもなく、かなり自由な身の上だ。
自分の来し方を思っても、これほど時間を持て余した時期はなかったし、私ほど時間に恵まれた環境の人はいないのではないか、と思う。
(この未曽有のパンデミック下、奮闘しているエッセンシャルワーカーの方たちには、頭が下がる。)
それでもブログを始めてすぐに、毎日文章を公開することは、自分には絶対にできない、と分かった。
私の場合、文章を書いたあと(というより、考えを吐き出したあと)、一晩寝かせるのは必須の過程だ。
夜が明けると、好きなように言い放った後の、言葉の残骸が残っている。
書いているときは当然につながっていた行間が、とんでもない飛躍だったりする。
なので、前日にはあったはずの論理性をたぐり寄せながら、文章に手を入れる。
最低一回は、この「一晩寝かせる」をしないと、言葉のガラクタでしか、ない。
書いている間、意識が近視眼的に自身の思考にしか、向いていないのだろう。
一方、ブログを毎日更新する方たちは、デフォルト値でも相手を意識した思考ができているのではないか、と推察する。
また、体調や私生活の波を、乗りこなす器用さ、聡明さを持っているのだろう。
今回の不調で、つくづく思った。
すごい人たちが、世の中にはたくさんいるものだ。
なお、体調がすぐれない時に書いたものは、読み返したら悉くどうしようもないものだった。
思えばそもそも、あの時には書くこと自体が、楽しくなかった。
ということは、考え(私の場合、ニアリーイコールで自分の毒)の吐き出しが必要なのは、元気な証拠なのかもしれない。
健康は大事。
スポーツの力は、どこまで発揮されるだろうか
東京2020オリンピック。
現在、中止や延期の声は小さくなりつつも、なお手放しの歓迎ムードは見られず、困惑や非難の空気の方が、大きい。
開催を進める政府やIOCは、始まってしまえば「やってよかった」という世論が形成されるのを期待しているのだろう。
G7も、それを見越した。
たしかに、スポーツは下手なアジテーションより、よほど力を持っている。
突然だが、私はスポーツ観戦ができない。
単に見ることはできるが、たいていそのスピードについていけず、何が起きているのか分からないのだ。
行為の意味付けもできないのに、一緒に喜び悲しむなど、できない。
(ほけーと眺めているだけだ。それこそ、悲しい。)
またオリンピックの、国別で競争させるという形式にも、胡散臭いものを感じている。
純粋に、最高の技を競い合いたいのあれば、国旗掲揚も国歌斉唱も、不要はなずだ。
報道アナウンスで「〇〇選手、日本を背負って戦います。」的な言い回しが、普通に流れたりすると、寒気がする。
ショーとして煽りたいのだろうけれど、薄っぺらなナショナリズムを広めれば、それはかえって国を毒する。
それこそこの地では、勝負の後、勝者敗者ともに互いに礼を示す「礼に始まり礼に終わる」の伝統が育まれてきたのに。
尊ぶべき礼の後に、安いナショナリズムを付け加えてどうするの、と思う。
(日本の伝統的価値観が最高、というのではない。
国別競争の今の形式であるかぎり、「平和の祭典」という看板をさげた「戦争代替物」でしかないでしょう、と思うのだ。)
一方スポーツ観戦は、そこに人生をかける人たち(サポーター)がいるほど、大きな魅力を持っていることも、分かる。
仕事が長引いた時、会社帰りの電車で時々、野球ファンと乗り合わせることがあった。
球場近くの駅から、試合終了後の高揚感に酔ったような観客が、どっと乗ってくるのだ。
車内の疲労をにじませた勤め人たちに気を遣いながら、それでも抑えきれない興奮に顔を赤くし、大きな声で「シーッ」と牽制し合って、笑いさざめく。
こんな私でさえ、本当に楽しそうだなあ、と思う。
実年齢はそれぞれだろうけれど、みんな若人の顔をしていた。
スポーツ、というよりスポーツ観戦は、多くの人に絶大な幸福感を与えるのだ。
オリンピックを開催すれば、人流は激増する。
マスクを倦厭する文化の人と、ワクチンを忌避する文化の人が、交わる。
一大イベントに異国まで来ておきながら、宿坊に缶詰め、アルコールを取らず、食事の際は黙食、という人が、どれだけいるのいうのか(修行僧じゃあるまいし)。
和食は、世界が憧れている文化だ。
そぞろ歩くに決まっている。
どう考えても、重症・死亡者数は増加する(新しい変異型も、誕生すると思っている)。
それでもなお、そういう「顔の見えない」被災者の絶望より、「顔のみえる」一流選手たちがもたらす幸福感の方が、世論を支配すると思われているのだろう。
(選手を批判しているのではなくて、スポーツ観戦で影響をうける世論の見通しとして。)
まあ、ハッピーな気分になれるなら、それに越したことはない。
ただ開催後「世論は、このオリンピックを潰そうとしていたんだぞ。我々が、愚昧な世論をおさえて、開催したんだぞ。」という尊大な声(引き替えに病を負った人や、営業の収益を奪われた人、医療業務に心身を削られた人を考えない無神経な声)が聞こえてきそうで、それだけは今から、むう、と思う。
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神を殺した四人組
「神を殺した四人組」というのを、以前に聞いた。
それなりに流通している言葉だと思っていたが、ネットで検索してみたところ、見あたらない。
あれは独自の言い回しだったのだろうか。
キャッチーで時代性をよく表した言葉だと思う。
四人組というのは、以下の四名。
進化論で、創造主としての神を殺害。
宗教を「民衆のアヘンである」とし、覚醒と革命へのアクションを提唱。
「神は死んだ」と、哲学的神の死を宣言。
宗教を神経症へと還元、解体。
そういう時代だった。
私たちは今、神殺害後の時代にいるわけだけれど、さすが神様、やっぱり死んではいなかった。
宗教の持つ権力、影響力はかなり制限された(そして神様と以前より上手におつきあいできるようになった)けれど、神に救いを求める人間の心性は、古代から現代まで、基本的に変わっていないと思う。
たとえ特定の宗教組織に属していなくても、「困ったときの神頼み」は、今でも普通のことだ。
神様を本当に葬ったと言えるのは、たとえば世上の流行曲から「ねえ、神様」というようなフレーズが、一切消え去った時だろう。
それにしても喧嘩上等の、血の滾るようなあの感じは、フロイトやニーチェ、マルクスにも、共通している。
神様を殺そうとするくらいだから、それなりの勢いが必要なのかもしれない。
彼らは、それまで当然としてきたもの、「良識」に戦いを挑んだ。
真理に気づいてしまったら、戦わざるをえないのだろう。
そんな彼らが凡俗のヤカラと根本的に異なるのは、その知性による。
というのも、常に止むことのなく社会を騒がせる不正狩りが、ちょうど対照的だと思うのだ。
(急に卑近な話になるが。)
ネットでの悪口雑言の投稿や、抗議電話などだ。
「ゆきすぎた正義感」などとも表現されるが、あれらは正義など皆無の、加虐嗜好の発露にすぎないと思っている。
(「ゆきすぎた正義感」という表現は、よろしくないのではないか。ありもしない一分の正当性を、与えてしまう。)
あれら迷惑なものたちは、「良識」を信奉していて、「良識」の名の元に糾弾する。
物陰にかくれて攻撃するいやらしさは、匿名という攻撃方法だけでない。
「錦の御旗の下にいれば安全」的な、発想において卑劣なものを感じるのだ。
深く考察することもせずに(できずに)、正義漢気取りとは、片腹痛い。
「良識」に向かって果たし状を叩きつけた学者たちは、あれらとは肝の座り方が全然違っている。
だから、格好良い。
迷惑な人々にあるのは、知性の欠如、あるいは思考の不在。
ゆえに、人を傷つけるだけで、何も生まないし、誰も救わない。
フロイトの舌鋒と学問の面目
「信仰箇条は、確かに精神病の症状の性質を帯びているのだが、集団的現象であるがゆえに孤立という名の呪いをまぬがれているだけに過ぎない。」(『モーセと一神教』P145)
フロイトはこれでよく天寿を全うできたな、としみじみ思う。
『モーセと一神教』を読んで改めて思ったのは、フロイトは生涯、宗教と戦ったのだ、ということ。
「宗教を人類の神経症へと還元し、その巨大な力をわれわれが治療している個々の患者における神経症性の強迫的な力と同じものとして解明できるとの結論に研究が立ち至ったとき、われわれは確かに、われわれを支配するもろもろの権力の強烈な怒りを身近に招き入れてしまった。」(同P98)
そりゃそうでしょうよ、と思う。
神殺しを経た現代さえ、信仰心や信心は、とくに慎重に取り扱う必要がある。
なのに、「集団現象であるがゆえに孤立という名の呪いをまぬがれているだけ」って。
言い方を、もう少し、さ。
もともと、フロイトは忖度をしないお方だ。
そうでなければ、人が見ない振りをしていた心のうちを暴いてみせ、「無意識」と掲げてみせることなど、できなかっただろう。
「意識できないものが存在している」などという発見は、常人の頭では、できない。
みなが素通りしていたところで足を止め、ぐいと拾い上げてみせた、その慧眼と度胸。
今でこそ、私たちは無意識と呼ばれるものに慣れているが、当初の衝撃は、相当だったはずだ。
「ご自分では分からないでしょうけれど、あなたは意識下で、こんな(主に性的な)欲望を抑圧しているんですよ。」なんて言ったら、「失敬な!」と叱責されて、当然です。
でも、ここに学問の面目がある。
フロイトの喧嘩上等風の物言いは群を抜いているが、一般に学問は、「良識」を忖度しない。
むしろ、「良識」を疑ってかかる。
信仰深い人に、フロイトのもの言いは不愉快だろう。
自身を模範的存在と自負してきた人にも、無意識の分析は不愉快だっただろう。
学問の成果は、「良識」に安住している人を、傷つけることがある。
けれどそれは反対に、社会に合わせようと苦しんでいる人、「良識」に苦しめられている人を救う。
その苦しみは、個人に原因があるのではなく、社会にあるのだ、と指し示すことによって。
学術系書物(特に社会学)が、時にエンタメ以上に面白いのは、この点だ。
「良識」という名の偽善をあばいて断罪する、思考の名裁き。
その、格好良さ。
そうして得られた発見は、新しい知の地平を開き、本当の意味で人々を救う。
フロイトの精神分析が、のちに臨床心理となって、多くの人々に寄り添うように。