地震
気付けば、日いずる国に生をうけていて、これもありがたいご縁、とこの国を愛しているけれど、ふと「みんな、よくこんな所に住んでいるな」と他人事のように思ったりもする。
プレートの端っこ。
しかも複数の巨大プレートが、複雑にぶつかり合っている。
常に力と力がぶつかり合い、刻一刻と膨大なエネルギーを抱え込む。
地勢上、地震から逃れられない場所だ。
「これから数十年以内に必ず、関東大震災クラス(地方によっては、阪神大震災だったりするのかな)の地震がくる」と聞いて、ショックをうけた子どもは、私だけでないはず。
この国では小学生のころから、防災意識を教育されている。
日本にとって、地震はもはや風土の一つだ。
弥生時代には弥生時代の、戦国時代には戦国時代の、地震との付き合いがあった。
古代の人も、ただ「あなや、あなや。」と逃げまどっていただけではないはず。
時代時代に、当時の人はどうしていたんだろう、というそんな疑問にこたえてくれる一つが、『折たく柴の記』。
巨大地震と遭遇した時、武士はどう行動したのか、その一例がみえる。
http://www.bousai.go.jp/kohou/kouhoubousai/h25/74/past.html
「癸未の年、十一月廿二日の夜半過るほどに、地おびたゝしく震い始て、目さめぬれば、腰の物どもとりて起出るに、こゝかしこの戸障子皆たふれぬ。」(P107)
夜中に地震発生。
そして、さすが武士。
「おっとり刀」を文字通り、実践している。
まずは家人を庭に避難させると、
「やがて新しき衣にあらため、裏うちたる上下の上に道服きて、「我は殿に参る也。召供のもの二三人ばかり来れ。其余りは家にとゞまれ」といひてはせ出づ。」(P107)
現代なら、各自の安全確保が第一だが、白石は主君のところへ向かって走り出す。
家長が主君第一で動くのだから、残される家刀自も大変だったろう、と思う。
藩邸へ向かう道中、白石は
「家のうちに灯の見えしかば、「家たふれなば、火こそ出べけれ。灯うちけすべきものを」とよばはりてゆく。」(P108)
と呼びかけている。
地震の次には火災がくる、という危機意識が、当然のものとしてあった。
また、余震は繰り返し襲ってきており、
「神田橋のこなたに至りぬれば、地またおびたゝしく震ふ。おほくの箸を折るごとく、また蚊の聚りなくごとくなる音のきこゆるは、家々のたふれて、人のさけぶ声なるべし。石垣の石走り土崩れ、塵起りて空を蔽ふ。」(P109)
というあり様で、巨大地震の恐ろしさが伝わってくる。
やはり現代と違うな、と思うのが「圧されて死するものの苦しげなる声す也。」(P110)というなか、白石は足を止める必要性を、微塵も感じていないことだ。
むしろ「心はさきにはすれど、足はたゞ一所にあるやうに覚ゆ」(P109)と、ただひたすらに藩邸を目指している。
藩邸に到着すると、間部詮房(白石の盟友で、家宣の腹心)から「御つゝがもわたらせ給はぬ事を聞き」(P111)だしている。
家宣の身は、つつがなし。
何を置いても、主君の安全が第一なのだ。
(お家騒の巻き込まれや、行き違いで勘気を蒙るなど、思いがけないことであっという間に禄を失うことは、(安定して見える江戸中期でも)ザラにあった。
白石自身、家宣に仕える前に主家の定まらない、フリーター(というか、むしろ無職)的な時期を過ごしている。
主君の身に何かあるというのは、以後何がどう転ぶか分からない、恐ろしいものだったのだろう。
もちろん、家宣へのまっすぐな忠誠心も、あっただろうけれど。)
馳せ参じた家臣たちは、
「御庇に敷れしたゝみ十帖ばかり、庭上におろして、皆〱を其上に坐せしむ。」(P111)
と庭に畳を敷いて伺候するなか、家宣自身は、
「御袴ばかりに、御道服めされて、常の御所の南面に出でたゝせ給ひ、某がさぶらふを御覧じてめす。ご縁に参りしかば、地震の事つぶさに問はせ給ひて後に、奥に入らせ給ひぬ。」(P112)
と、白石から情報収集を行っている。
面白いと思うのは、家臣が庭に揃うなか、家宣は地面に降りていない。
城の広間で、主君が着座するのは一段高い上段之間で、その頭上も折上天井、という空間感覚が、こんな時でも貫き通されている(それが彼らにとって、落ち着く空間なのだろう)。
地震がおきたその夜も、ようやく明ける。
「夜も明けぬべき此に至て、「おほやけに参り給はむ」と聞こゆ。某長門守の耳につきて、「地震ふ事、なほしきり也。参らせ給はむ事、いかにや」といひしに、「我もさこそはおもへど、とゞめ申すべき事にあらず」といふほどに、出たゝせ給ひたり。」(P112)
おおやけ、すなわち将軍綱吉のところに参上するという家宣に、家臣たちが「まだ余震が続いてるけど、大丈夫かねえ。」などと耳打ちし合っている。
自分たちだって、家人や家族を放り出してきているのに、主君に対してはまるで子どもを心配する母親みたいだ、と現代の私はおかしく思う。
仁義礼智でおさめる社会は、こうやって回るのだ。
家宣留守中、白石は藩邸の火の出た場所や、圧死した遺体整理の見分をし、食事などをして待っている。
家宣が帰還し、白石は家宣より
「かくては、地ふるふ事、数日をも経め。ふるひし初の事のごとくならざらむには、あひかまへて来るべからず。とく〱家に帰るべし」(P114)
と言われる。
数日は地震が続くだろうから、最初みたいな大きな揺れがないかぎり来るんじゃないよ、とのお言葉。
これをもって、白石は自宅に帰る。
「家に帰りぬれば、未の初にはすぎぬ。」(P114)
帰宅は、午後1時すぎ。
ようやく主人が帰ってきて、家の人たちも安心しただろう。
(でも翌日、やっぱり藩邸に行っている。)
その後、「同じき廿九日の夜に入て」(P115)、案の定というか、火事がせまる。
(それでも、7日後。元禄の大地震は、大正の関東大震災のような大規模火災は引き起こさなかったのが、わかる。)
白石の家では、大切なものを塗籠に保管したが、壁を修復したばかりで不安だと、
「やがてそのほとりの地に坑ホらせて、賜りし所の書ども、また手づから抄録せしものども、ぬりごめより取出して、かの坑の中にいれ、畳六七帖その上にならべ置て、土厚くきりかけて、家を出づ。」(P115)
と、大事な大事な書は土に埋めて、避難した。
火勢が弱くなって帰宅してみると、隣家が焼け崩れてきていて、
「彼埋みし所の土をばうち散らして、上にかさねし畳やけうせ、下なる畳に火すでにつきし程に帰りきける也。ぬりごめは思ひしに似ず、たふれもせず、やけもうせず。さらば、「はじめ坑うがち、書をさめし事は、徒に力を労せし也けり」といひてわらひぬ。」(P116)
と、骨折り損してしまった笑い話で、「元禄地震」の話を締めている。
何だか、心の余裕がある。
現代の大地震の恐怖や悲劇を、報道でたくさん見聞きしている身には、少し不思議だ。
他に細かいエピソードとして、地震の際すぐに薬を準備させたのに、着替えをしたらうっかり、
「うちわすれて、はせ出しこそ恥かしき事に覚ゆれ」(P107)
と悔しがるとか、藩邸が崩れて進めずに困っている人に、
「我は、「かゝる事もこそあれ」と思ひて、はじめ庭上に在し時、そこらの草履を左右の袖にしたれば、取出してあたふ。」(P113)
とドヤ顔するとか、白石の細かい行動や心情が描かれていて、面白い。
(むしろ、こういう細かいところが、面白い。)
白石の書には、僕すごいでしょ、というドヤ顔が、頻出する。
勝手ながら、新井白石という名前からは、冷静沈着でクールな人物をイメージしていた(学者だし)。
でもそんな勝手な印象とは反対に、子どもっぽい得意顔や、怒り狂うことの多い、熱血系のお人だ。
白石のお怒りの様子は、古文でも声を上げて笑ってしまうほど、面白い。
また別稿で。
『折たく柴の記』の「生類憐みの令」
おすすめの本。
とても面白いので、古文だからと敬遠してはもったいない。
岩波文庫は下欄に語注があって、読みやすかった。
(もし分からない部分があっても、しょせん日本語。
気にせず、読み飛ばせば良い。その内に、慣れてくる(乱暴…)。
「草」と言われて、最初はギョッとしても、「ああ、おかしいってことね」と了解すれば、以後OKなのと同じ。)
この本の面白さは、第一に新井白石の癖の強さ。
かつ、具体的記述によって、分かりやすいこと。
話が眼前の事物に則しているので、白石の思考が時を超えて、私たちにリアルに伝わってくる。
面白いエピソードがたくさん詰まっているが、まずは、有名どころの「生類あはれみといふ事」(P132)を紹介したい。
新井白石は、6代将軍家宣の漢学の師をつとめ、家宣・家継時代の政治を主導した。
家宣の政治は、当然、5代将軍の引継ぎから始まる。
5代将軍綱吉といえば、「お犬様」だ。
「己丑の春、正月十日に、大喪の御事聞えて、明日は人ゝ皆西城に参るべき由を告来れり。」(P131)
綱吉逝去が1月10日。
「廿二日に至て、御葬送之儀あり。これは十七日より此かた廿日に至りて、雨ふりつゞきし故に、此日におよびしとぞ聞こえたりける。」(P132)
綱吉の葬儀は1月22日。
この日にずれこんだのは、17日から雨が降り続いたためと言われた。
が、本当はべつの事情があった。
「御葬送の儀けふ迄のびし事、真実は雨ふりつゞきし故にはあらず。其故ありし事也。」(P133)
(以降は、白石が直接かかわっておらず、伝聞の記録となっている。)
綱吉逝去の後の「生類憐みの令」の速やかな撤廃は、次代に課せられたファーストミッションだった。
だが綱吉は、
「我此年比、生類いたはりし事ども、たとひすぢなき事にさぶらふとも、此事に限りては、百歳の後も、我世にありし時のごとくに御沙汰あらむこそ孝行におはすべけれ。こゝに侍ふものどももよく承るべし」(P133)
と御遺誡を残していた。
「これだけは、100年後も変わらず続けるんだぞ」って、ものすごい執着が見える。
(困った人だ…。
しかも綱吉は、「すぢなき事(筋がとおらない事)」という非難も、充分承知していたことになっている。
分かっていて、死の床で、念押ししてる。
もう、ヨッシー、勘弁してよ。)
そんな遺戒を残された以上、
「さほどまでに仰置れし事を、御代に至て、其禁除かれん事もしかるべからず。」(P133)
となってしまう。
新将軍が、就任後ただちに前代の遺訓を改めるなど、よろしくない。
一方、「生類憐みの令」の撤廃は、待ったなしの状態であった。
「されど、此年比、此事によりて罪かうぶれるもの、何十万人といふ数をしらず。当時も御沙汰いまだ決せずして、獄中にて死したるものの屍を塩に漬けしも九人まであり。」(P133)
このお触れで多くの罪人が生じ、お裁きが追いつかず、判決を待つうちに獄中死したものも9名あった、と。
(この妙にリアルな人数。)
そこで家宣は、綱吉遺臣の筆頭、柳沢吉保に話を通した。
内意をうけた吉保は、「こゝに侍ふものども」すなわち枕頭で御遺誡を受けた人々に、即時撤廃の旨を伝え、その同意を確認する。
そのうえで20日には、彼らを綱吉の棺の前に呼び出した。
「さらばとて廿日に御棺の前に参らせ給ひ」(P134)
棺に向かって、
「御ゆるしをかうぶるべきに候」(P134)
と言上する。
綱吉第一の腹心、吉保のデモンストレーションは、明確で分かりやすい。
以上の取り計らいののち、
「此禁除かるるゝ由をば仰くだされたる也。」(P134)
とたどり着く。
禁の解除が御葬送の前だったので、世間は綱吉の意思だと思ったという。
「いまだ御葬送之儀も行はれざるほどなれば、世には御遺誡の事とおもひたる也。」(P134)
波風を立てず、ファーストミッション、無事にクリア。
以上が『折りたく柴の記』にみる「生類憐みの令」の後始末記だ。
この法令の、同時代の人々の困らされた感、また代替わりのバタバタ感が、伝わるかと思う。
以下は、私の蛇足的思考です。
1)政権移譲
世界史を見渡しても、目立って珍しいこの悪法、「生類憐みの令」。
次代を担う家宣に課せられたのは、この即時停止と、そのための根回しだった。
即ち、スピードとスムーズさ。
旧弊の撤廃は、下手に行えば反動を招く。
それをうまく処理しながら、新風を吹かせるのは、いつの時代も新しい為政者が背負う課題だ。
さて現在、私たちの目の前の総裁選、衆院選。
新リーダー待望の空気のなか、権力の中心が移動するかもしれないけれど、旧弊の撤廃と、既存勢力の上手な収め方は、どこまで進むだろうか。
白石の時は、「将軍代替わり」という分かりやすさで、旧勢力者に自分たちの引退を納得させやすかった。
(それでも、綱吉時代からの勘定方、荻原重秀に引導を渡すのが遅々として進まず、白石はブチ切れている。これはこれで面白いので、別稿で。)
それに比べて現代は、去るべき人を去らせるのが、格段に難しい。
新しいビジョンを提示するのも重要だが、その後の「始末力(排除ではなく、当人たちにきちんと納得させ、退かせる力)」も、政治家には必要だ。
むしろこれがなければ、どれだけ新しい目標を掲げても、新しい時代を作ることはできない、と思う。
2)お役所仕事
「生類憐みの令」で検挙された何十万人という数は、多すぎてピンと来なかったが、驚いたのは「屍を塩に漬けしも九人まであり」だ。
し、塩に漬けるの?
亡くなっちゃたら、弔うしかないでしょ。
そう思った。
でも、当時の役人たちはそうしなかった。
塩漬けにしたということは、保存。
死体となった被告人の罪を、(死などなかったかのように)裁こうとしていたのだろう。
それが、御定法だから。
討ち取った首級を塩漬け、というのは、その理屈を理解できる(残虐性・猟奇性への恐怖はともかく)。
でも、罪人が獄中死しちゃったから塩漬けして保存、という理屈には、別の恐ろしさを感じる。
「無理だよ。これ以上、処理できないよ。え、死んじゃったの?しょうがないな、じゃ、塩に漬けとこうか。」という流れに、いわゆるお役所仕事の神髄を見た気がした。
お役所仕事を極めると、きっと、こうなるのだ。
現代でも、形式的、非効率的なお役所仕事が、社会問題としてたびたび挙げられる。
でもそれらは、現代に限った問題ではない。
深く伝統あるものなのだと、私はこの本で実感した。
なお、目下の官僚(地方より国)の主な問題は、組織の硬直化よりも、官僚と政治家のパワーバランスの揺らぎから来ている、と思っている。
実務能力よりも、権力者へのご機嫌うかがい(忖度)力を磨くべし、が今の流行りなのだろう。
赤木氏の件はもちろん、ファイザーワクチン1瓶6回ではなく、5回の見積ミスって、どれだけの単純ミスだ、と驚いた。
緊急事態下に実務ができない(さぼるというより、能力として、できない)ところに、病根の深さを感じる。
もちろん人は、間違いをする。
私も自身を振り返ると、とても他人さまを非難できない。
でも、組織としてこの程度という能力を晒してしまったところに、病の深さを思う。
強引に、『折りたく柴の記』に話を戻すと、浮世のあれもこれも、たいていは今に始まったことではなく、いつだってこんな感じでやってきたのだと思う。
良くない構造や問題は、もちろんその都度、訂正してゆくべきだ。
同時に、どんなにたくさん問題が湧いて出てきても、特別に今を悲観することもない、と思う。
野戦病院
歴史のなかの自分を感じるのが、好きだ。
長い人類の歴史のなかで、他でもないこの時代、この場所に、芥子粒のように存在している自分を感じると、ワクワクする。
出来る限りのマクロな視点から、個として存立する最小単位の私へ、視点を移行させる。
そしてまた、この小さな私(いつだって、ここからしか思考できない)から、人類を眺めてみる。
歴史と生きている、歴史を生きている、と実感するのが、楽しい。
楽しいけれど難点もあって、歴史に記された苦しみに刺激され、気鬱になることがある。
戦争で亡くなっていった人たちの、苦しみや絶望。
被差別を、宿命として引き受けなければならなかった人たちの、悲しみ。
例えば、断頭台に上らされるときの重い足や、ガス室に連れていかれるときの、声さえ出ない恐怖など、我がことのように記憶している。
ノイローゼっぽく(?)なってしまうこともあるので、まずいと感じたら、自分の気持ちを、そこから引き剝がすようにしている。
人類の罪はイエス様が背負ってくださっているのだから、私ごときが余計な気を回さなくてもよい、と。
(やめればいいのに、それでもやはり好きなので、その手の資料に手を伸ばしては、同じことを繰り返す。懲りない。)
どんなことも、経験を積み重ねれば、得るものがある。
メンタルコントロールにだいぶ慣れて、引き返すタイミングを押さえるのが、上手くなった。
コロナ報道で沈まずにすんだのは、このためだ。
新型コロナウイルスがアメリカ大陸に上陸したころ、亡くなっていった方たちの断末魔の息苦しさを、この身に感じそうになったことが、たしかにあった。
でも今までの経験があるので、その気配にいち早く気が付くことができた。
良くない方に傾いている自分に、「共鳴しなくていいよ」と命じる。
言って聞かせれば、すっと楽になる。
(簡単に、自己暗示にかかる。)
ディスタンス社会で実生活が楽になっているのもあって、あの頃は、落ち込むというほどのことはなかった。
なのに、ここにきて沈下した。
(あ、もう浮上してます。実質、2週間くらいの沈下だったと思う。)
ネットをうろつくことができなくなり、テレビもつけられない。
夜、眠れなくなり、朝は枕から頭を上げるのに、木の根を引っこ抜くような気力がいる。
原因は、「野戦病院」。
緊急医療施設を表現するワードとして、さかんに用いられていた(いる)。
これが、私には重かった。
「野戦病院」という言葉には、膨大なイメージが付属している。
主に幼少期からなじんだ戦争文学の堆積が形づくっているので、それは先の大戦の日本のものだ。
(児童文学における戦争文学の割合は、大人のそれよりもずっと多い。
『ふたりのイーダ』の椅子は、今も私の世界のどこかで、足を引き摺りながらイーダちゃんを探している。)
小学校のころから、毎年国語の教科書には、太平洋戦争の作品が必ず一篇は入っていた。
義務教育を通して(すなわち少なくとも9年間)そうだったし、多くの日本人が「野戦病院」から想像するのは、太平洋戦争のそれだと思う。
(間違っても、『風と共に去りぬ』の南北戦争の野戦病院ではない。)
この言葉が呼び起こすのは、だから例えばこういう感じだ。
耐えがたい飢えと、激痛。
暑さと、喉の渇き。
じっとりとまとわりつく、湿った空気。
ただよう腐臭と、隣人の呻き。
瘦せこけた衛生兵。
包帯すらなく、バナナの葉でくるまれた傷口。
自決用にそっと渡された手榴弾の、哀しい軽さ。
雪深い北国に生まれ、あるいは活気ある下町に、あるいは伝統香る街に生まれながら、遠い異国の地でこうして生を終えることをどう思えばいいのか、ぼんやりと言葉を探す。
密林の奥から聞こえてくる、もはや現か幻聴かも分からない、「天皇陛下、万歳!」の声。
見捨てられた南方戦線の記憶が、よみがえる(勝手に、自分の記憶になっている)。
そもそも夏は、死者が近い。
古くからのお盆もあるし、暑い夜に怪談話、という伝統もある。
現代を生きる私たち日本人は、暑さの中に死者を悼む気持ちを溶かし込んで、毎年夏を送っている。
夏の暑さと死者の気配は、分かちがたい。
ちょうど暑い時期に、「野戦病院設置」のかけ声、その言霊に喰われてしまった。
現在、野戦病院の名で呼ばれ、設置が望まれている臨時医療施設は、救命のための医療機器が揃い、医療従事者も配されたものだ(当然だ)。
そんな恵まれた環境で野戦病院とは片腹痛い、と戦争を知らない子供たちの、さらに下の世代の私は、思う。
野戦病院を、なめるな。
(立ち直ると、強気になる。)
むしろ今、「自宅療養」の名で、医療から切り離されている人たちのほうが、よほど野戦病院に違い状態にさらされている。
見捨てられた南方戦線で、命を落としていった人たち。
彼らはもう戻らないけれど、今、自宅で病床についている人たちは、救うことができる。
ここ数日は、選挙を意識した動き、報道が活発になってきた。
それはそれですごく面白いのだが、権力闘争を見せるほど、「今やるべきなのはそれじゃない」と、国民の反発を生む(と、ご本人たちも分かりきっているだろう)。
だからこそ、今がチャンスだ、と思っている。
総裁選、衆院選にかこつけて、で良い。
真に有効な施策を、頭を絞って提示していただき(マスク配布みたいなアレは、もう十分なので)、この社会からとりこぼされる人が、一人でも少なくなりますように。
医療従事の方たちのメンタルは、大丈夫だろうか。
私などより、よほど死者に近い場所で奮闘し続けて、もう1年以上。
深くふかく、感謝します。
メンタルヘルス
コロナウイルス発現で世界が一変し、多くの人がメンタルに多大な影響を受けた。
休業要請等で生計が脅かされる人達は当然のこと、直接的な影響がなくても連日の感染報道で気分が落ち込む人は、たくさんいただろう。
そんななか申し訳ないのだが、私はディスタンス社会になって、とても救われた。
朝から夜までの未曽有パンデミック報道にも、気鬱に陥ることは、なかった。
メンタルヘルスはむしろ、絶好調だった。
世の中にはストレスを周りにぶつけて、心のバランスをとる人たちがいる。
攻撃の対象になるのは、弱い、とみなされる人たちだ。
女性やこども、男性でも反攻撃的な人。
嫌なことをされても噛みつき返すことがない、と(だからといって、傷ついていないわけではないのに)、ストレスのはけ口として、不愉快な目にあわされる。
そんな役回りを負わされている人たちは、ディスタンス社会になって、かなり救われていると思う。
「緊急事態下の生活様式で、人々のストレスが溜まっている」とあたりまえのように言われるが、ストレスから解放されている人も、かなりの数に上っているはずだ。
(実社会では私も一応、「おとなしい人」で通っている。)
さすがに社内や取引先で、怒鳴られたり、暴力をうけたりは、ない。
もっと小さな、ごく些細なものだ。
セクハラやパワハラと認定されない、ギリギリのレベルでの嫌がらせ。
情報共有という名の、陰口。
目配せを回して、疎外感を与える。
鼻の笑いや侮蔑の眼差しで、自分の優位をアピールする。
言外、ボディランゲージでの恫喝。(「お前は、黙ってろよ」みたいな。)
「あれ、ごめん。気に障った?そんなつもりじゃなかったんだけど。」と、ただちにエクスキューズで消去できるもの。
慇懃無礼、というのを本当に知ったのも、社会に出てからだ。
言葉づかいや物腰は至極丁寧なのに、強烈な悪意を表現できるなんて、実際に目にするまで想像もつかなかった。
どうしてそんなことをするのだろうと言っても、答えは明白で、彼らにはそういった行為(他者への嫌がらせ)が、必要なのだ。
自分のメンタルバランスを、保つために。
なるべくスルーする(それ以前に、不愉快な人には近づかない)ようにしているが、会社組織は日々長時間拘束である上に、共同作業が基本である以上、避けきれない。
しかもそういう人に限って、仕事がラフというか、動かないというか、フォローや確認が必要なことが多い。
近づきたくないのに…。
(優しさから、サポートするのではない。
失敗して、私のせいにされるのを避けるための、保身の術だ。
超絶に上から目線で、私の根性も相当に、歪んでいる。)
また不思議なもので、あのタイプは一人をやり過ごす(転属や退職でいなくなる)と、別の新しい人が、ふうっと出てくる。
どうせなら似たもの同士、徹底的にやり合ってくれたら良いのだけれど、そうはならない。
彼らは戦いたいのではなく、ストレスを発散したいだけなのだから、しかたない。
じりじりと、ボディブローのように効いてくる、嫌がらせ。
そんなものを受けるたびに、「私は、サンドバックじゃないんだけどな。」と思う。
そして、「家族が、受け止めてくれないかなあ。」と思ってきた。
子どもはともかく伴侶は、その人と人生を分かつことを、社会的に契約している。
お近づきになる意思など、これっぽっちもない私が、どうして彼らの精神的安定のためのサンドバックにならなければならないのか。
伴侶が責任もって、彼や彼女のストレスの受け皿になってよ(あるいは、教育をほどこしてよ)、と思ってきた。
だから、ディスタンス社会になって、本当に楽になった。
(反対に、不可視領域、家庭内でのハラスメントは、悪化しているだろうと思う。
幼い子たちの身の上を想像すると、怖い。
でもとりあえず、自分の身の安全だけを考えて、喜んでいる。)
結局のところ、根が、引きこもり体質なのだ。
私にとってディスタンス社会は、正々堂々と引きこもれる、かつて想像したこともない社会の到来、ユートピアの実現を意味していた。
ところがコロナ発現から1年半、最近になってメンタルが沈下しはじめた。
話が一転するので、続きは別稿で。
本日、二度目のワクチン接種。
一度目の副反応より、しんどいと聞いているので、おとなしくして過ごす予定。
頭痛薬、ポカリ、パウチゼリー食材を購入し、寝込む準備はOK。
目に映る社会が違う
バッハさんが、菅首相と小池都知事に五輪功労賞(金賞)を授与、というニュースを聞いた時、「い、嫌がせ…。」と思ってしまった。
だって、日一日と、選挙が近づいているこの時期に、そんな。
選挙では、「みんなと一緒」を演出するのが、定石だ。
田植えをしている有権者に、革靴が汚れるのをいとわずに近づいて、握手を求めたり。
風雨や酷暑のなかでこそ、街頭演説に精を出したり。
農家の隣人、サラリーマンの隣人を即興で演じて、ともに汗を流す感をアピールするのが、定番中の定番だ。
なのに表彰なんて、「みんなからの逸脱」に他ならない。
しかも「五輪の発展に寄与した」という功労賞(金賞!)。
コロナウイルスの感染拡大にみんなが慄いている、この時期に。
きっと、非常時のおもてなしのささやかさに、バッハさんたちIOC貴族の皆様は、ご不満であらせられたのだ。
ああ、残念だ。
でも、みんな、頑張ったんだけどな。
そう思ってしまった。
ご本人たちはまだしも、選挙対策の秘書さんや後援会さんたちは、一瞬顔が引きつったのではないだろうか。
当然、対立陣営は、出してくるだろう。
「感染拡大とは無関係と主張する例のイベントで、ありがたくも畏くも、表彰された人たち」と。
ところが、バッハさん銀座散策のニュースを聞いて、笑ってしまった。
この呑気さ。
オリンピックを賛否どちらとも割り切れない気持ちでいる国民の間を、そして不要不急の外出禁止令下の街中を、散策するバッハさん。
ベルサイユ行進に「パンがなければ、お菓子を食べればいいじゃない」と言ったマリーアントワネット、バスティーユ牢獄襲撃に「(僕の、狩り)成果なし」と記すルイ16世を、彷彿とさせられる。
隔絶感というか、情報が行き交う現代であっても、これほどまで違う現実認識が成り立つのだ。
認知バイアスは、人間の認識が、本質として持っている。
というか、バイアス無くして人間の認識は、成立しえない。
分かってはいるが、その乖離性を目の当たりにして、笑ってしまった。
そう、あの贈り物も、きっとバッハさん(たち)に、悪気はなかったのだ。
彼らの目に映る現実社会は、まだまだ明るく華やかで、心から「大変だったね、ありがとう」という気持ちを表現したかったのだろう。
(本当に感謝しているのであれば、そしてもう少しだけ気が利けば、本気の手紙を一通したためてくれた方が、ずっとありがたいのに、と思うけれど。
でも、彼らにとっては賞をおくるのが、一番の御礼なのだろう。
栄誉が欲しくてしようがない、という人は想像以上に、たくさんいる。)
そう、「嫌がらせ」なんて、失礼極まりなかった。
人の好意は、素直にありがたく、いただくものだ。
変に勘ぐる私の心こそ、卑しいバイアスにかかっていた。
バッハさんには笑ってしまったのだが、笑えないのが、こちら。
社会憎悪による犯罪の際、その標的によって、加害者の目に映る社会がどんなものだったかが、透けて見える。
秋葉原無差別殺傷事件の際には、犯行現場が銀座や六本木、あるいは高級住宅地ではなく「秋葉原」であることに、彼の認知する社会の偏狭さを感じた。
(その時は、経済的格差の一つの表出、と感じた。)
だが今回の、小田急線車内刺傷の彼の目に映っていたのは、女の子(だけ)だった。
「女子大生の勝ち組」なんて、私には矛盾ワードでしかない。
大学生は経済的自由も得ておらず、親からの自立も未だ果たせず、タスクが多くて自由と保障は少ない。
一生懸命きれいな格好をして、楽しそうに笑って見せていても、その立場は不安定で、(「恵まれた環境」とはいえるけれど)「勝ち組」からは程遠いと、私は思う。
でも、彼は違った。
女性は力が弱くて狙いやすいというのが、彼が標的を選んだ、主要因だろう。
だが社会的弱者は他にいくらでもいるのに(一般的な社会的弱者は、子ども、高齢者、障碍者だろう)、彼は女性、しかも若さを兼ね備えた女子大生を、狙った。
彼には女の子以外が、文字通り「眼中になかった」ように思う。
社会への憎しみが滾った時、彼はその社会を、目に映っている女子大生に、仮託した。
これは(経済的格差による社会の分断などではなく)嗜好による、視野の閉鎖性を感じる。
人々みな、目に映る社会は、それぞれに異なっている。
もちろん、私が認識する社会も、一つの偏った、いびつなものだ。
唯一の(お手軽な)正解などなく、一人ひとりが、一つひとつの社会問題を、冷静に自分の頭で考えてゆくしかない。
未曽有のパンデミックへの対応も。
人生への不満を、無関係な人への殺意で表現してしまう問題も。
被害を受けられた方の心・身体の傷が、一日でも早く癒えますように。
空手の形
空手の形。
美しすぎた…。
昨日、空手の形を初めて知って、これは私の直球ど真ん中だと、慌てて以降の試合を録画予約した。
そして今日まで一人、テレビに向かって「ヒー」と何度もつぶやきながら、鑑賞。
完全に、魅了された。
美しさに耽溺して、今、ほとんど頭がおかしくなっている。
ぐっと腰を落としたときの膝の角度。
安定した上半身の下で、クッと畳からあげられた踵。
動きの速さ、切れもすばらしいけれど、むしろ静止時の充実感。
動いていない時に、気がぎゅううううっと、充実している。
静と動の境目がなく、まったく無理がない。
凝縮されながらも自在な、時の流れ。
台詞も、BGMも、柝のツケもなく、これだけ魅せるってタダゴトではない。
身体一つ、形そのもので、これだけの世界、美を作り出せるのか。
ああそういえば、ライティング効果もなかった。
でも、選手たちの身体から、すさまじいオーラがほとばしっていた。
昨日は、「生で見てみたい」と思ったが、今日は「これを直接見たら、正気を保てないかも」と思った。
舞台のあと、役者さんの力にあてられて地に足が付かない、地上に戻れない感じになることがあるが、それをはるかに超える気がする。
気合の声で、失神するんじゃなかろうか。
形の名前の、琉球の響きも、大好きになった。
沖縄、行ってみたいなあ。
そして今日、知った。
パリオリンピックでは、空手種目が外されたとのこと。
出会ったとたんに、再会はないと告げられてしまった。
初恋の人に、さよならと言われた気分だ。
でもなにしろ、素晴らしいものを見せていただいた。
全ての選手と、空手文化を育ててこられた方に、感謝したい。
この文章、興奮のままにあげるけれど、大丈夫かな。
オリンピック観戦
オリンピック東京2020、いろいろと観戦している。
普段スポーツを見ないので、慣れないことに苦労しているが、そんな私でも楽しめる競技を、見つけた。
空手の形。
素晴らしく、美しいですね。
重心が下にぐっと沈んだ、こういう美しさ、大好きなんです。
歌舞伎や能で、なじみの美だ。
身体に充実した気が、広い空間を満たしていく充溢感。
「静」によって「動」が活き、「動」によって「静」が満ちてゆく。
なんというか、「時が、呼吸している」と感じる。
カメラ越しで、これだけ伝わってくるのだ。
生で、見てみたかった…。
この反対には、重力を知らない妖精が舞うような、時間がリボンのようにスルスルと流れるような、バレエ的な美しさがあると思う。
これは本当に好みの話でしかなくて、私には沈んだ形が、直球で刺さってくる。
しかも空手の演武は、同じ形をいろいろな選手が演じてくれる。
これはもう、「助六は、先代のが忘れられないわ」「いやいや、○○屋も良かったよ」と同じノリで楽しめるのではないか。
(それを点数に換算するところに、無粋さを感じないわけではないけれど。)
他にも、五輪種目として若い競技から感じる、「みんな、楽しもうぜ」的雰囲気が、素敵だ。
極限への挑戦を、選手がお互いにのびのび、楽しんでいる。
しがらみに捕われていない感じが、見ていてホッとする。
(※オリンピックを楽しんでいる方、以下の繰り言は、せっかくの楽しみに水を差してしまう可能性があります。
申し訳ありません。)
真剣勝負に向かう選手の顔は、男性も女性も、最高に美しくてかっこいい。
スポーツに疎い私でも、見ていて、楽しい。
同時に、お脳の軽いナショナリズムに、嫌悪の鳥肌を立てている。
「がんばれ、日本!」や「われわれの○○選手」を聞くのが、本当にしんどい。
あれらの裏に透けて見えるものが、いやなのだ。
一つには、人心の誘導や利用という、権力者側の下心。
一つには、己で確立できない脆弱な自尊心の補完に、選手や共同体を利用する、個人の側の下心。
(そんなふうに考えなきゃいいものを、と思いながらも)反射的に、嫌悪を感じてしまう。
(みんな本当に、スポーツマンシップと矛盾せずに、あれら言い回しを受け入れることができているのだろうか。
あるいは、こう表現するといいだろうか。
負けた選手に「申し訳ありません」なんて言わせる社会的風潮は、不健全極まりない、と。
うん、これなら、共感してくれる人がいるかもしれない。)
今はディスタンス社会に救われているが、もしコロナ前のようにオリンピックが開催されていたら、私は相当苦しんでいただろうと思う。
会う人ごと、オリンピックの話題のたびに、自分を偽っていただろう。
たとえば、はしたないという思いを殺して、メダル獲得数に、喜んで見せたり。
オリンピックが盛り上がるほどに、社会との違和感、それでも順応しようとする徒労に、へとへとになっていたはずだ。
私のスポーツセンスの劣悪さは横に置いても、多くの人にとって、トップレベルの競技の優劣は、そのままでは見極めができないところにまで来ている。
それらがなければ、もう素人には鑑賞や応援さえ成立できない、そんな域にまで一流の競技は達しているのだと、実感した。
競技についての造詣がなければ、一般人には理解できない、あるいは間違った解釈をしてしまうほど、先鋭化したスポーツ。
それはたとえば、現代音楽が音楽理論を分かっていないと楽しめず、現代アートが美術史を知らないと意味不明になりがちなのに、似ている。
生身の身体で、そこまでスポーツを進化させている選手たちは、本当にすごい。
あと、気になったのが、3年後のパリオリンピック。
それまでに、人類がコロナウイルスをコントロールできているとは、思えないのだ。
ワクチン先進国でさえ、変異株による感染再拡大に追われている現在だ。
「ワクチンは解決の決定打にならない」が、現在得られた知見だと、思っている。
もちろん、ワクチン接種に意味がないわけではない。
ワクチンや治療薬の開発と浸透が、変異型の発現スピードについていけてないことが、問題だ。
3年後は「オメガ株」か、ギリシアアルファベットを通りこして、「ラテン名株」が流行しているかもしれない。
東京2020は開催地が日本だったから、こうして開催することができた。
国民の反対、ワクチン普及の致命的遅れという条件下でさえ、血も流れず、政府も(今のところ)転覆せずに済んだ。
でもフランスで、同じことができるとは、思えない。
なにしろ、あのフランス革命を、くぐりぬけてきた国民だ。
(世界史を学んだ時、パリ市民の底力に、驚嘆した。
王権後退後、フイヤン派、ジロンド派、ジャコバン派と、次々に興亡してゆく諸勢力。
歴史好きには、めちゃくちゃ面白かったが、「私だったら、ついていけない世の中だ」と感じた。
そんな長い長い混沌期、パリ市民は疲れ知らずに、元気だった。
喧々諤々議論し、新聞をばらまき、武装化し、襲撃し、ギロチンの刃を落とし、諸外国の干渉をはねのけ、ズタズタに社会を分断しながらも立ち止まることなく、思想で武力で、どこまでも戦い、進み続けた。
そう、「丸くおさめる」なんて言葉、彼らの辞書にはなかった。)
あのDNAと先人の記憶が流れているかの地で、市民に負担を強いるようなイベントを、おとなしく受け入れるわけがない。
この東京2020が、感染促進性と経済的恩恵の些少さを実証したし、北京でもひと悶着ありそうだし。
3年後のイベントを意識しつつ、これからのフランスの政治に、興味津々だ。
(そういえば5年前は、テロの洗礼をうけたことがない東京が、どこまで有効なテロ対策をうてるのかと、興味津々だった。
未来は、全く読めない。
だから、面白い。)
ワクチン、1回目予約がとれて、接種待ちの現在です。
みなさま、どうかお気をつけて。