フリュギアの井戸

実生活では口にできないあれこれを、ひっそり井戸の底に落とします。

パブリックアート

見かけるたびに、ドキッとするのものがある。

東京ビックサイトの近くにある、クレス・オルデンバーグ氏の『Saw, Sawing』という作品。

巨大なのこぎりが大地に突き立てられたオブジェだ。

 

みんなあれを見て、何とも思わないのかな。

 

東京ビックサイトを利用するとき、その行き帰りで目にする。

あると分かっているので、そちらを見ないようにしているが、広大な空間に浮かぶ真っ赤な色彩、そして何といっても巨大なので、ふとした瞬間、目に飛び込んでくる。

 

地球に突き立てられた刃(しかものこぎり。ナイフなどよりよほど美から乖離したフォルム。その破壊力)。

一見して強い暴力性、攻撃性を感じる。

 

社会問題になっていないらしいので、おそらく嫌悪感をおぼえるひとはいない(あるいはごく少数)なのだろう。

イタリアのハイブランドの、着物の帯らしきものに足をのせる図像は、あっという間に議論の対象になったのだから。

 

作品そのものを否定しているわけでは、ない。

公共に展示するべきものなのか、と思うのだ。

 

たとえば美術館では、どぎつい現代アートを面白がったり、差別意識満載でも古典の美しさに耽溺したりすることができる。

会場の入口で、ここから先は別世界という心構えをしているから。

 

むしろギャラリーでは、すさまじいくらいのものを見ないと、来た甲斐がない、とがっかりするかもしれない。

良識を取っ払い、人の神経を逆なでして提示してきたものの見方に驚かされることが、しばしばある。

自分の盲点に気づかされて「ううむっ」とうなるのは、アートの楽しさの一つだ。

 

でも、パブリックアートは違う。

置かれているのは、平穏な日々を送りたい人々が行き交う空間だ。

日々の生活に、尊厳を傷つけるようなものを置きたがる人が、どれだけいるというのだろう。

 

パブリックアートとアートは、はっきりと別物だ。

アート作品を路上に出せば、パブリックアートになるわけではない。

パブリックアートという規範内での作品のみ、本当の公共芸術たりえる。

 

つくる人たちは、自分の仕事をしたのだろう。

仕事をしていないのは、周りの人たちだ。

つくる人は、良識より表現を先行させてしまうタイプなのだから、周りが社会との折り合いをつけさせなければダメでしょう、と思う。

 

街中でぎょっとさせられる作品は、他にもたくさんある。

「驚くべき」作品との邂逅は、まるで出合い頭の事故のように、日常生活のなかで突然起きる。

そして美術展のような展示終了の予定もなく、そこに在り続ける。

 

街中で、テロのような作品に出会うたびに、そっと目を逸らしながら思う。

表現は無限にあるのに、よりによってなぜこれを、世間様にお出ししているのだろう。