現代文
(今でも、大好きだ。)
舞台は朱雀大路の大門、都の顔。
その門には死人が捨てられ、その死肉を喰らう鴉が、上空を舞う。
作品全体に、気味悪いアイテムが配され、腐臭がただよっている。
(にも関わらず、芥川自身の端正な文体のせいで、生理的刺激をうけずに読める。)
話は「或日の暮方のことである。」から始まって、「下人の行方は、誰も知らない。」で終わる。
すなわち、夕方から始まって、夕闇、夜へ。
それとともに、主人公はモラトリアムな態度から、一転して悪への憎悪を抱き、最終的には悪へ走ることになる。
この、構成のすばらしさ、美しさ。
最後の「下人の行方は、誰も知らない。」の一文で、芥川は主人公を、読者の前からかき消した。
ああ、彼は闇の世界に行ってしまったんだなと、分かる。
走り去る彼の背中を飲み込んだのは、単なる洛中の夜ではない。
本当の、真の闇だ。
だからその行方は、「誰も知らない」。
この最後の文章は読んでいて、歌舞伎の見得のように、決まった、と感じる。
その見事さに、思わず、声をあげたくなる。
「ッ田端町!」
高校の現代文の授業で、『羅生門』が扱われた。
現文の先生は、「主人公がこのあとどうなったか、想像してみましょう」と生徒たちに原稿用紙を配った。
大げさではなく、私は絶望した。
想像なんて、できるはずがない。
彼は、あの闇へ走っていったのだ。
なんのための、あの結びの一文なのか。
最高の料理に、泥水をかけられた気分だった。
それくらいこの作品を愛していた、ということなのだけれど。
作品への愛情が、教師への反感となった。
不遜を承知で言う。
教師でもこの程度か、と思った。
それでも教師批判、指導批判はできなかった。
「こんなこと、ナンセンス極まりないですよ。」なんて失礼なことは、当時の私には言えなかった。
(今なら、黙っているほうがつらいかもしれない。だからこうして、デトックスをしている。)
良き生徒の一人として、その後の主人公を書いた。
それは最高の料理に、自分の手で泥をかける作業だ。
―芥川さん、すみません。
しんどかった。
どんなことを書いたかは、覚えていない。
ただ脱力感に止まりそうになる手で原稿用紙の枡目を埋めながら、日本文学部への進学はないな、と思った。