パレスチナ問題とフロイト
イスラエルに、自らでは制御することのできない攻撃性を感じ、フロイトの『モーセと一神教』を読み返した。
今、この瞬間も傷を抱え、砲火の音に怯えて暮らしている人たちがいる。
地球の裏側から、一滴の血も流さずに意見を言う以上、敬意をもって述べたい。
(日本での新型変異株醸成計画は、自分も巻き込まれているので、「なるようにしかならない」と言いやすい。)
イスラエル(特にネタニヤフさん)は、「自分たちは攻撃されている、だから戦う」と、常に発信している。
でも、インティファーダ報道等で、圧倒的兵力差をみせる写真が、たくさん世界に散っていった。
もちろんイスラエルの人々も、常にテロの恐怖にさらされている。
でも、領土分割の地図を見ても、日常生活の報道でも、まして攻撃時の報道ではなおさら、イスラエルとパレスチナの力の強弱は、明らかだ。
最近では仮想敵(?)がイランになっての被害アピールも増えている。
戦闘開始の際に「自分たちは、被害者だ」と主張するのは、よくあること。
でも、ここまで現実と乖離していながら、なお、それを主張できてしまう。
そんなところに、ユダヤ教の心性を強迫神経症になぞらえていたフロイトを、思い出した。
フロイト自身、「仮説」「大胆」と言っているように、とても大胆な話だ。
壮大で説得力もあり、かえって「よくできたお話だけど…」と躊躇してしまうほど。
フロイトは、ユダヤ民族の立役者であるモーセを、エジプト人と措定する。
その上で、彼がエジプトから持ち出した帝国主義的一神教が、ユダヤ教の始まりであるとする。
ユダヤ教の成立期を、「モーセの殺害(原父殺し)」、「その教えの棄却」、「後の強固な教えの蘇生」で描き、このプロセスを強迫神経症の「幼児期のトラウマ」、「潜伏」、「神経症の発症」「抑圧されたものの回帰」のアナロジーで説明する。
(ここらへんは、フロイトの独壇場。)
ナチス台頭下で書かれたこの書物は、反ユダヤ主義の心性についても、考察している。
キリスト教は原父殺しを「告白」しないユダヤ教に憎悪を抱く、というのには、ううむ、と唸る。
(あまりに上手すぎて、保留にしてしまうのだが。)
何百年にもわたる古い民族の記憶を丸ごと、えいやっと調理してしまうような、スケールの大きさ。
ものすごく大胆で、かつフロイトの思考の格闘を、リアルに感じることができる。
自身がユダヤ人で、ナチスの迫害を肌で感じながら、よくここまで枠の大きな思考を持つことができるなと感心する。
人は追い詰められると、手近なものしか眼中になくなると思いがちだが、決してそうではない。
思考できる人間は、いつだって思考できるという証だ。
執筆時とは逆に、イスラエルの暴走に世界が引いているような現在読んでも、この本は力を失っていなかった。
本物って、こういうことだ、と思う。
(念のため。
古代の原父殺しにより、ユダヤの人たちが本質的に攻撃性を持っているというのでは、もちろんない。
もし現在のイスラエルが、何か強迫神経症的に行動せざるを得ないとしたら、原因は当然、この前のホロコーストだ。
イスラエルの人も、パレスチナの人も、本当につらい苦しい思いをしていると思う。
と、ポチポチ打っていたら、ネタニヤフさんが退陣の気配。
イスラエルにも、平和を模索する人たちは当然、いる。
血の流れない道が、開かれますように。)