スポーツの力は、どこまで発揮されるだろうか
東京2020オリンピック。
現在、中止や延期の声は小さくなりつつも、なお手放しの歓迎ムードは見られず、困惑や非難の空気の方が、大きい。
開催を進める政府やIOCは、始まってしまえば「やってよかった」という世論が形成されるのを期待しているのだろう。
G7も、それを見越した。
たしかに、スポーツは下手なアジテーションより、よほど力を持っている。
突然だが、私はスポーツ観戦ができない。
単に見ることはできるが、たいていそのスピードについていけず、何が起きているのか分からないのだ。
行為の意味付けもできないのに、一緒に喜び悲しむなど、できない。
(ほけーと眺めているだけだ。それこそ、悲しい。)
またオリンピックの、国別で競争させるという形式にも、胡散臭いものを感じている。
純粋に、最高の技を競い合いたいのあれば、国旗掲揚も国歌斉唱も、不要はなずだ。
報道アナウンスで「〇〇選手、日本を背負って戦います。」的な言い回しが、普通に流れたりすると、寒気がする。
ショーとして煽りたいのだろうけれど、薄っぺらなナショナリズムを広めれば、それはかえって国を毒する。
それこそこの地では、勝負の後、勝者敗者ともに互いに礼を示す「礼に始まり礼に終わる」の伝統が育まれてきたのに。
尊ぶべき礼の後に、安いナショナリズムを付け加えてどうするの、と思う。
(日本の伝統的価値観が最高、というのではない。
国別競争の今の形式であるかぎり、「平和の祭典」という看板をさげた「戦争代替物」でしかないでしょう、と思うのだ。)
一方スポーツ観戦は、そこに人生をかける人たち(サポーター)がいるほど、大きな魅力を持っていることも、分かる。
仕事が長引いた時、会社帰りの電車で時々、野球ファンと乗り合わせることがあった。
球場近くの駅から、試合終了後の高揚感に酔ったような観客が、どっと乗ってくるのだ。
車内の疲労をにじませた勤め人たちに気を遣いながら、それでも抑えきれない興奮に顔を赤くし、大きな声で「シーッ」と牽制し合って、笑いさざめく。
こんな私でさえ、本当に楽しそうだなあ、と思う。
実年齢はそれぞれだろうけれど、みんな若人の顔をしていた。
スポーツ、というよりスポーツ観戦は、多くの人に絶大な幸福感を与えるのだ。
オリンピックを開催すれば、人流は激増する。
マスクを倦厭する文化の人と、ワクチンを忌避する文化の人が、交わる。
一大イベントに異国まで来ておきながら、宿坊に缶詰め、アルコールを取らず、食事の際は黙食、という人が、どれだけいるのいうのか(修行僧じゃあるまいし)。
和食は、世界が憧れている文化だ。
そぞろ歩くに決まっている。
どう考えても、重症・死亡者数は増加する(新しい変異型も、誕生すると思っている)。
それでもなお、そういう「顔の見えない」被災者の絶望より、「顔のみえる」一流選手たちがもたらす幸福感の方が、世論を支配すると思われているのだろう。
(選手を批判しているのではなくて、スポーツ観戦で影響をうける世論の見通しとして。)
まあ、ハッピーな気分になれるなら、それに越したことはない。
ただ開催後「世論は、このオリンピックを潰そうとしていたんだぞ。我々が、愚昧な世論をおさえて、開催したんだぞ。」という尊大な声(引き替えに病を負った人や、営業の収益を奪われた人、医療業務に心身を削られた人を考えない無神経な声)が聞こえてきそうで、それだけは今から、むう、と思う。
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