フリュギアの井戸

実生活では口にできないあれこれを、ひっそり井戸の底に落とします。

井戸に向かって、愛をさけぶ

実生活で口にしないことの筆頭は、批判。

身近な人や組織の批判はもちろん(誰にどう伝わるか分からない)、政治や社会の批判も控える(言わぬが花)。

 

次点が、好きな本。

本が好き、と話すし、おすすめ本の貸し借りなどもするが、一番好きなこてこて文学や哲学については、飲み込んでいる。

 

「休みの日は、何しているの?」

「本を読んだり、かな。」

「へえ、どんなのを読むの?」

「昨夜は『純粋理性批判』。カントの構想力は、読むたびに惚れ直してしまって。」

「へー…。」

コミュニケーションが分断される、失敗ルート。

 

「休みの日は、何しているの?」

「本を読んだり、かな。」

「へえ、どんなのを読むの?」

藤沢周平さん。時代小説とか、読みます?」

これが、正解(だと思っている)。

貸し借りになったとしても、藤沢さんの作品は、読者に寄り添う優しさを持っているし。

 

(本当に、海坂藩にも、憧れている。

ああ、海坂藩。

この、まろやかで美しい響き。懐の深さと力強さを、ともに感じさせる素晴らしい配字。

名前だけでも、センスの良さにうっとりしてしまう。)

 

というわけで、外では言えない好きな本の、好きなところを、好きなように語る。

 

プラトンの『ソクラテスの弁明』。

 

 

超絶に、面白い。

(放談です。真面目な先行研究は、エベレストほど山積しています。)

 

魅力その1)キャラクターが立っている。

 

ソクラテス

こんなヘンテコなおじいちゃん、本当に存在したの?と思うくらい、図抜けた人物だ。

 

ソクラテスの弁明』は、ソクラテスが死刑になった裁判の記録。

もう少していねいに言うと、裁判でのソクラテスの申し開き(一人称のセリフのみ)。

 

今から数千年前、太陽きらめく地中海の都市アテナイで日々繰り広げられていたソクラテスの哲学問答は、論破された者たちの恨みを買い、ついに裁判沙汰となった。

 

裁判は二段階になっていて、①有罪か無罪か、②有罪の場合の量刑争い、となっている。

 

原告側は、もともとソクラテスの命を奪うつもりはなく、アテナイ追放ができれば十分だったらしい。(上掲書P51)

ただ法廷テクニックとして、死刑を求刑した。

先手の原告求刑「死刑」に対して、後手の被告ソクラテスが「国外退去」を申し出てくれば、たとえ敗訴しても、本当の目的は達せられるから。

 

ところがソクラテスは、自分への訴状に対して、次のように応える。

 

①自分は、無罪である。(だって、善いことをしているのだから。)

②自分の量刑はごちそう(!)が適切なのだけれど、譲歩して罰金(だって、善いことをしているのだから。)

 

結果、死刑。

それを敗北とも、恐怖とも思っていない(だって、善いことをしているのだから)。

 

このソクラテスの態度、虚勢とか悔し紛れとかでは、ない。

私の書き方では伝えることができていないが、ソクラテスは死刑宣告にあたって、恐怖も、後悔もしていない。

 

「なぜならばメレトスもアニュトスも決して私を害い得ないであろうから。また実際彼らにそれが出来るわけもないのである。けだし私は、悪人が善人を害するということが神的世界秩序と両立するとは信じないからである。勿論彼はおそらく私をあるいは死刑に、あるいは追放に、あるいは公民権剝奪に処することは出来るであろう。しかしこれらのことは彼やその他幾多の人々には恐らく大なる禍と思われるであろうが、私はそうは思わないのである。それより遥かに大なる禍は、今彼がしていることをすること、すなわち正義に反して人を死刑に処せんとたくらむことである。」(P39)

 

禍とは、恐れるべきこととは、悪を行うこと。

そう、ソクラテスは、死刑を恐れることが、できないのだ。

 

当時のアテナイには、弁論で相手を打ち負かすために、詭弁を弄する者たちが、はびこっていたらしい。

小手先の弁論術で聴衆を篭絡し、その称賛や栄誉を得ようとするソフィストたちに、ソクラテスは繰り返し問答をしかけ、その欺瞞を暴いてきた。

詭弁を捨て、愛智に生きよ、と。

 

弁論を弄び、蓄財や名声の獲得に奔走するのは、正しくない。

正しくないものは、どうしたって、正しくないのだ。

 

結果、逆恨みというか、ソクラテスに言わせれば、「そうして彼がこの訴状を起草したのも単にこの高慢と放恣とおよび青年の出来心との故だと思われる。」(P32)と、つまり、目立ちたがり屋のおっちょこちょいな青年(いつだって、こういう人はいる)のために、死刑に処せられることになったのだ。

 

ソクラテスにも、友人や慕ってくる人たちが、当然いた。

驚愕、動揺する彼らをしり目に、ソクラテス本人はケロリとしている。

 

ソクラテスには、不運をひきうける悲壮感もなければ、運命と対峙する英雄っぽさもない。もちろん、諦観もない。

 

いや、ソクラテスに英雄性を見出すむきも、あるだろう。

「悪法もまた法なり」などは、きっとそういう心性が生んだフレーズだ。

だがそれは、読み手が自身のロマン主義的嗜好を、かなり強引に投影している(と思う)。

 

正義や信念に生きながら、殺されてしまう悲劇のヒーローは、歴史上文学上たくさんいる。

でも彼らと異なり、ソクラテスは死刑にあたって、普通だ。

それが、ソクラテスの凄みだ。

 

善は、善ゆえに、善いし、悪は、悪ゆえに、悪である。

それ以上でも、それ以下でもない。

 

その言動は人間離れしていて、たとえば文学作品では、とても造形できないだろう。

こんな登場人物がいたら、作品そのもののリアリティが、持ちこたえられない。

 

(当時の風刺喜劇に描かれたという(P16)。

カリカチュアとしてなら、最適だ。

でもシリアスには、とうてい無理だ。)

 

偉大が過ぎて、ヘンな人。

 

「またそれだからこそ私は、終日、到る所で、諸君に付き纏って諸君を覚醒させ、説得し、非難することを決してやめないのである。諸君、この種の人間は容易にまたと諸君の前に現れないであろう。」(P40)

 

自分で分かっているよ、このおじいちゃん。

数千年後の私たちも、頷く。

 

こんな偉人は、空前絶後

二度といなかった。

 

途方もない傑物が、確かに存在したのだと、書き残してくれたプラトンに感謝だ。

 

*****

 

長くなってしまったので、ここで一旦切り上げる。

 

好きなものについて書くのは、とても楽しい。

だけど、まだ「魅力その1」って…。

 

お付き合いいただき、ありがとうございます。


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