地震
気付けば、日いずる国に生をうけていて、これもありがたいご縁、とこの国を愛しているけれど、ふと「みんな、よくこんな所に住んでいるな」と他人事のように思ったりもする。
プレートの端っこ。
しかも複数の巨大プレートが、複雑にぶつかり合っている。
常に力と力がぶつかり合い、刻一刻と膨大なエネルギーを抱え込む。
地勢上、地震から逃れられない場所だ。
「これから数十年以内に必ず、関東大震災クラス(地方によっては、阪神大震災だったりするのかな)の地震がくる」と聞いて、ショックをうけた子どもは、私だけでないはず。
この国では小学生のころから、防災意識を教育されている。
日本にとって、地震はもはや風土の一つだ。
弥生時代には弥生時代の、戦国時代には戦国時代の、地震との付き合いがあった。
古代の人も、ただ「あなや、あなや。」と逃げまどっていただけではないはず。
時代時代に、当時の人はどうしていたんだろう、というそんな疑問にこたえてくれる一つが、『折たく柴の記』。
巨大地震と遭遇した時、武士はどう行動したのか、その一例がみえる。
http://www.bousai.go.jp/kohou/kouhoubousai/h25/74/past.html
「癸未の年、十一月廿二日の夜半過るほどに、地おびたゝしく震い始て、目さめぬれば、腰の物どもとりて起出るに、こゝかしこの戸障子皆たふれぬ。」(P107)
夜中に地震発生。
そして、さすが武士。
「おっとり刀」を文字通り、実践している。
まずは家人を庭に避難させると、
「やがて新しき衣にあらため、裏うちたる上下の上に道服きて、「我は殿に参る也。召供のもの二三人ばかり来れ。其余りは家にとゞまれ」といひてはせ出づ。」(P107)
現代なら、各自の安全確保が第一だが、白石は主君のところへ向かって走り出す。
家長が主君第一で動くのだから、残される家刀自も大変だったろう、と思う。
藩邸へ向かう道中、白石は
「家のうちに灯の見えしかば、「家たふれなば、火こそ出べけれ。灯うちけすべきものを」とよばはりてゆく。」(P108)
と呼びかけている。
地震の次には火災がくる、という危機意識が、当然のものとしてあった。
また、余震は繰り返し襲ってきており、
「神田橋のこなたに至りぬれば、地またおびたゝしく震ふ。おほくの箸を折るごとく、また蚊の聚りなくごとくなる音のきこゆるは、家々のたふれて、人のさけぶ声なるべし。石垣の石走り土崩れ、塵起りて空を蔽ふ。」(P109)
というあり様で、巨大地震の恐ろしさが伝わってくる。
やはり現代と違うな、と思うのが「圧されて死するものの苦しげなる声す也。」(P110)というなか、白石は足を止める必要性を、微塵も感じていないことだ。
むしろ「心はさきにはすれど、足はたゞ一所にあるやうに覚ゆ」(P109)と、ただひたすらに藩邸を目指している。
藩邸に到着すると、間部詮房(白石の盟友で、家宣の腹心)から「御つゝがもわたらせ給はぬ事を聞き」(P111)だしている。
家宣の身は、つつがなし。
何を置いても、主君の安全が第一なのだ。
(お家騒の巻き込まれや、行き違いで勘気を蒙るなど、思いがけないことであっという間に禄を失うことは、(安定して見える江戸中期でも)ザラにあった。
白石自身、家宣に仕える前に主家の定まらない、フリーター(というか、むしろ無職)的な時期を過ごしている。
主君の身に何かあるというのは、以後何がどう転ぶか分からない、恐ろしいものだったのだろう。
もちろん、家宣へのまっすぐな忠誠心も、あっただろうけれど。)
馳せ参じた家臣たちは、
「御庇に敷れしたゝみ十帖ばかり、庭上におろして、皆〱を其上に坐せしむ。」(P111)
と庭に畳を敷いて伺候するなか、家宣自身は、
「御袴ばかりに、御道服めされて、常の御所の南面に出でたゝせ給ひ、某がさぶらふを御覧じてめす。ご縁に参りしかば、地震の事つぶさに問はせ給ひて後に、奥に入らせ給ひぬ。」(P112)
と、白石から情報収集を行っている。
面白いと思うのは、家臣が庭に揃うなか、家宣は地面に降りていない。
城の広間で、主君が着座するのは一段高い上段之間で、その頭上も折上天井、という空間感覚が、こんな時でも貫き通されている(それが彼らにとって、落ち着く空間なのだろう)。
地震がおきたその夜も、ようやく明ける。
「夜も明けぬべき此に至て、「おほやけに参り給はむ」と聞こゆ。某長門守の耳につきて、「地震ふ事、なほしきり也。参らせ給はむ事、いかにや」といひしに、「我もさこそはおもへど、とゞめ申すべき事にあらず」といふほどに、出たゝせ給ひたり。」(P112)
おおやけ、すなわち将軍綱吉のところに参上するという家宣に、家臣たちが「まだ余震が続いてるけど、大丈夫かねえ。」などと耳打ちし合っている。
自分たちだって、家人や家族を放り出してきているのに、主君に対してはまるで子どもを心配する母親みたいだ、と現代の私はおかしく思う。
仁義礼智でおさめる社会は、こうやって回るのだ。
家宣留守中、白石は藩邸の火の出た場所や、圧死した遺体整理の見分をし、食事などをして待っている。
家宣が帰還し、白石は家宣より
「かくては、地ふるふ事、数日をも経め。ふるひし初の事のごとくならざらむには、あひかまへて来るべからず。とく〱家に帰るべし」(P114)
と言われる。
数日は地震が続くだろうから、最初みたいな大きな揺れがないかぎり来るんじゃないよ、とのお言葉。
これをもって、白石は自宅に帰る。
「家に帰りぬれば、未の初にはすぎぬ。」(P114)
帰宅は、午後1時すぎ。
ようやく主人が帰ってきて、家の人たちも安心しただろう。
(でも翌日、やっぱり藩邸に行っている。)
その後、「同じき廿九日の夜に入て」(P115)、案の定というか、火事がせまる。
(それでも、7日後。元禄の大地震は、大正の関東大震災のような大規模火災は引き起こさなかったのが、わかる。)
白石の家では、大切なものを塗籠に保管したが、壁を修復したばかりで不安だと、
「やがてそのほとりの地に坑ホらせて、賜りし所の書ども、また手づから抄録せしものども、ぬりごめより取出して、かの坑の中にいれ、畳六七帖その上にならべ置て、土厚くきりかけて、家を出づ。」(P115)
と、大事な大事な書は土に埋めて、避難した。
火勢が弱くなって帰宅してみると、隣家が焼け崩れてきていて、
「彼埋みし所の土をばうち散らして、上にかさねし畳やけうせ、下なる畳に火すでにつきし程に帰りきける也。ぬりごめは思ひしに似ず、たふれもせず、やけもうせず。さらば、「はじめ坑うがち、書をさめし事は、徒に力を労せし也けり」といひてわらひぬ。」(P116)
と、骨折り損してしまった笑い話で、「元禄地震」の話を締めている。
何だか、心の余裕がある。
現代の大地震の恐怖や悲劇を、報道でたくさん見聞きしている身には、少し不思議だ。
他に細かいエピソードとして、地震の際すぐに薬を準備させたのに、着替えをしたらうっかり、
「うちわすれて、はせ出しこそ恥かしき事に覚ゆれ」(P107)
と悔しがるとか、藩邸が崩れて進めずに困っている人に、
「我は、「かゝる事もこそあれ」と思ひて、はじめ庭上に在し時、そこらの草履を左右の袖にしたれば、取出してあたふ。」(P113)
とドヤ顔するとか、白石の細かい行動や心情が描かれていて、面白い。
(むしろ、こういう細かいところが、面白い。)
白石の書には、僕すごいでしょ、というドヤ顔が、頻出する。
勝手ながら、新井白石という名前からは、冷静沈着でクールな人物をイメージしていた(学者だし)。
でもそんな勝手な印象とは反対に、子どもっぽい得意顔や、怒り狂うことの多い、熱血系のお人だ。
白石のお怒りの様子は、古文でも声を上げて笑ってしまうほど、面白い。
また別稿で。