まつりごと今昔
国家事業に群がるものは上から下まで、自分の利益のみを追い、国庫を食い尽くす。
というのは時事トピックではなくて、約300年前の白石の嘆息。
「凡ソ興造の事あれば、その事をうけ給はる輩、たかきもいやしきも、おの〱身家の事をのみいとなみて、工商の類と心をあはせて、国財をわかちとりしによれる也。」(P152)
歴史が面白いのは、こういうところ。
私たち人間は、おかしいくらい何時の世も、同じことをしている。
利権に群がる人と、それを糾弾する人。
白石は、目の前の曲事を糾弾することで、自分の時代を切り開くタイプだった。
雪だるま式に膨れ上がる予算に強い嫌悪を示し、片っ端からバツをつけていく。
同時に相手を糾弾し、糾弾の勢いあまってヒステリー、堪忍袋の緒を引きちぎる。
『折たく柴の記』に登場する大きな敵役は、二人。
林信篤と荻原重秀。
看板役者でないとつとまらない、大悪人だ。
(単に罵倒されている小者は、数えきれないほどいる。)
まずは、林信篤(鳳岡)。
儒学者同士、仕事を奪い合うことが多く、この二人が衝突するのも、当然ではある。
綱吉の棺の御石郭銘文(P135)、湯島聖堂大成殿御詣の次第(P190)など、白石と信篤の案、どちらがふさわしいか、争っている。
なかでも一番派手にぶつかったのが、朝鮮聘事だった。
朝鮮からの外交使節団を迎えるお役目。
重大かつ華やかな大役であるのは、いわずもがなだろう。
これは林家が代々担ってきたと申し出る信篤をしりぞけ、家宣は白石に一任した。
信篤の上申書について家宣が下問したところ、信篤がきちんと答えられなかったからだ、と白石は言う。(P166)
白石は、両国国書、尊称や諱の取り扱いについて交渉し、対面の儀を見直し、接待にも刷新を行った。
(たとえば朝鮮信使の道中、食事が饗膳倒しだったのを、「賜宴は京都、大阪、駿府、江戸の四か所。他は普通の食事で十分。先方だって、日本の信使にそうしている。」(P200)とか、饗応には三家御相伴という定めに、「領客使で十分。勅使にだって、そんなことしていない。」(P202)など、白石らしい見直しだ。)
改善はすなわち、前例の否定。
大役を逃した上に、父祖の業績を「礼にかなわず」とバシバシ変更させられて、信篤が心中穏やかでいられたはずがない。
白石の一連の対応を、林一派が非難する。
「「さらば両国の戦ちかきにありぬ」などいひのゝしる。」(P204)
戦争が始まるなどと、これまた重大事案のごとく騒ぎ立てた。
だがそれも白石にいわせれば、
「すべて此時の事共、彼国の人よりも、なほ我国の人〱のいひのゝしれる事こそ多かりつれ。」(P204)
「いかにかくまで、我国の恥ある事をしれる人なき世とはなりぬらむ。」(P205)
ということで、問題は隣国ではなく、国内の口さがない有象無象。
外交のあるべき姿を問うているのではなく、ただ白石を失脚させ、林家の主導を取り戻したいのだ。
実務で心身をすり減らしているところに、敵対派閥が大騒ぎして、白石はキレた。
朝鮮信使が出立したその日に、辞表を提出する。
(白石の気持ちは、分かる。
令和の御代も、同じ。
疫病蔓延に対して、何を休止して、何を立ち上げればよいのか、与野党ともに具体的施策はあまりに杜撰で、本気で知恵をふり絞るのは勢力分布図さくせ…いや、むにゃむにゃ。
あのね、白石。人間ってそういうものみたいだよ。)
「けふよりして、出て仕ふる道は思ひとゞまりぬる事の由をしるして、彼使のこゝをたちし日の午の時に終りに、詮房朝臣につきて奉れり。」(P205)
白石は、「(国書の交渉は)我もまた死を誓ひて、初のことばを改めず。」(P204)、「此事仰かうぶりし始より、我身はなきものとこそ思ひ定たりつる」(P213)という覚悟だった以上、「そんなに欲しけりゃ、この首一つ、くれてやるわ」ということだろう。
家宣や間部詮房は、慌てただろうか。
あるいは白石の人柄を分かった上で、とうとう言いだした、と思っただろうか。
いずれにしろ、引き留めにかかる。
「仏氏の説に一体分身とかいふなるは、我レと彼レとの事也。」(P206)
家宣は「(白石は)自分と一心同体だよ。」と言ってくれた。
その上で「白石の仕事の正も否も、自分がともに負う。だから進退は、彼自身の望むように。」(P206)と指示した。
また詮房は、
「すべて此たびの事ども、汝の身ひとつの事とおもふべからず。皆これ我身の上の事ぞかし。いかにおもふ所ありぬとも、我ため也とおもひておもひとゞまるべし」(P207)
貴方一人ではないよ、と家宣と同じように寄り添ってくれている。
「誰が言い立ててるかも知っているし、腹立ちも分かる(P206)。ただ、私のためと思ってこらえてくれ」と。
家宣の言葉に白石は、「あまりにかたじけなさに、覚えず涙にむせびぬ」(P207)と、引退を思いとどまった。
(家宣も詮房も、大きくて優しい。
白石みたいな人が職場にいたら、たぶん私は、真っ先に逃げる。
家宣や詮房みたいな人なら、「どこまでもついていきます」と思うだろう。
まるで、正反対なこの人たち。
彼らが一緒になって、「正徳の治」を作り出したのが、面白い。)
この朝鮮聘事の騒ぎは、信篤自身よりもその追従者が、コトを煽ったように見える。
ただ、幕府お抱え学者の家に生まれ育った林信篤と、木下順庵につくまでは独学で学んだ白石では、そもそも反りが合わなかっただろう。
(経済格差がそのまま学歴格差なのは現代以上で、「利根・気根・黄金の三ごんなくしては学匠になりがたし」(P66)と言われていた。
若いころの白石は、学問を志しながらも貧しさから師につけず、書も購えず、借りた書を書き写しては、独学した。
読める書も少なく、誤解も多く、学者としては不幸だった(P74)と本人は言っているが、白石の「自分の頭で考える」思考力が強いのは、このおかげではないかと思う。
古典を聖典とあがめて丸暗記し、時々したり顔で引用するだけの御用学者だったら、あれほどの政治力を発揮できなかっただろう。)
白石からみた信篤の人物評は、こんな感じだ。
「かゝる人して、人ををしへみちびくべき職にあらしめむ事、もつともしかるべからず。」(P177)
こんな人間に、人を教え導く職につかせるなんてありえない、と言う。
(信篤は家宣の代でも、綱吉のころからの大学頭を、引き続き任じられている。)
要職の大人物でも遠慮なく貶しているが、荻原重秀の人物評はもっと徹底している。
「其余毒天下に流レ及びし事、いづれの代に除き尽すべしとも覚えず。中にも軍国之儲、その備足らず、財貨之利、其用行はれざる事のごとき、公私の弊害、いかにともすべからず。天地開闢けしより此かた、これら姦邪の小人、いまだ聞も及ばず。これらの事ども三十余年の間、六十余州の中、しらざる人もあらず。」(P272)
彼の悪影響は、何代にも及ぶだろう。軍備は不足し、経済は不健全。こんな悪人は天地開闢以来またとなく、その悪事は本邦あまねく知れ渡っている、と。
重秀を嫌悪する気持ちが、真っ黒な滴になって、行間からしたたり落ちている。
執筆時、重秀はすでに罷免、しかも死去後にもかかわらず、文章が熱い。
書いてるうちに思い出してしまい、怒りが滾っている感じだ。
重秀が白石の言葉通りの人物なら、ハリウッド映画のラスボスに最適の素材だ。
いつまでも引きづってしまっているけれど、長いのでここで稿を改めます。