フリュギアの井戸

実生活では口にできないあれこれを、ひっそり井戸の底に落とします。

若紫の衝撃

「あの問題の」と言われるような本から、危険を感じたことはない。

谷崎やバタイユは、その独走っぷりを事前に仄聞いているので、実際に読んでも「おお、やってるね」と、受け止めることができる。

 

こちらが無防備でいるときにこそ、致命的打撃をくらうのだ。

だから本とのトラウマ的出会いは、名作と言われるものに多い。

そう、たとえば『源氏物語』。

 

 

私は円地文子訳で出会った。

 

きっかけは、歴史年表。

学校の教室、廊下側壁の上方に、通年で張り出されていた。

平安時代のところに、髪の長いお姫様の絵があって、「源氏物語絵巻」とあった。

 

古典なのは分かったし(古典は人々から愛されてきた証拠、おもしろいものが多い)、この文庫版、円地文子訳を手にいれた。

(児童書に文庫サイズはないので、当時は文庫本自体に憧れを感じていた。)

 

で、肝心なことを知らなかった。

 

物語冒頭から、光の君が藤壺の宮(継母)に執着しているのは感じたけれど、それを恋愛感情とは思わなかった。

だって、普通、そうでしょう。

最初に描かれた帝のご愛子のイメージが強いし、その執着は、義理の母への深く美しい愛情と捉えていた。

母をたずねて三千里』のマルコのように。

 

真実を突き付けられたのは、若紫の巻。

「(光の君が)限りない恋慕の情に心をくだきぬいておいでになるあの藤壺の宮」とある。

この直接的な文章で、ようやく真実と直面し、愕然とした。

私のマルコが、とんでもないことになっていた。

 

藤壺の宮って、まま母でしょう?)

(まま母が、好きってこと?)

(それって、つまり、どういうことだ?)

 

想定外の事態に、とっさに下した判断は、「読み落としがある」。

 

同じ名前の別人がいたのではないか、あるいは藤壺部屋が代替りをしていたのではないか、と疑った。

いずれにしろ、あの藤壺とは違う人物がいるはずだと思った。

 

もう一度、桐壺の冒頭から、注意深く読み返した。

でもやっぱり藤壺の宮は、あの一人しかいなかった。

 

理解しようとしない頑迷な頭に、もっとも明瞭に示してくれたのは、各巻の冒頭に配されている関係図だ。

若紫の巻頭で藤壺の宮は、桐壺帝と光源氏の親子ともに、二重線(婚姻関係)で結ばれている。

 

全てが指し示す事態を理解するのに、何日か、必要だった。

そうして飲み込めないものを、ようやく嚥下した時の、衝撃。

 

(……ありえない。)

 

あのショックを、どう表現すれば伝えらえるだろうか。

私にとって完全に、トラウマ的読書経験だった。

 

それでもよろよろと読み進めていくと、先ほどの文章のすぐ後に、光の君が藤壺の宮に忍んで行くところが描かれている。

それまで、親愛の情か恋慕かさえおぼつかない、淡い書き方しかしてこなかったのに、この若紫では、本当に急にストーリーが展開しているのだ。

 

こちらはようやく、光の君の気持ちを、理解したばかりだ。

満身創痍で行軍している身に、藤壺との逢瀬のくだりなど、受けきれるものではない。

 

私自身、まだいろいろと未熟だったこともあり、ものすごい嫌悪感(具体的には嘔吐感)をおぼえた。

 

(……きしょい。)

 

しかも、「宮も浅ましいことであったと悔いていらっしゃるいつぞやの夜」とある。

これには、ほとんど絶叫だった。

 

(いつぞやって、いつだよ!何も、聞いてないですけど?!)

 

一度、丁寧に読み返しをしたばかりだったので、確信をもって、非難の声をあげた。

(この時の経験から、『輝ける日の宮』は、その存在を信じている。)

 

以上、これら若紫の巻のショックに比べれば、のちに朧月夜の君に手を出すことなど、全然大したことではない。

私にとって源氏物語は、若紫の巻が、そしてその言語道断ぶりが、その第一印象を決定づけている。

(巻名の紫の上さえ、私には霞んでいた。)

 

当時は、なんて話を称揚しているのか、と世の中の感性を疑った。

少なくとも、教室に張り出すものじゃない、と思った。

(しばらくは、あの年表の絵を見るだけで、気持ち悪さがこみ上げた。)

 

そんな私の源氏物語との出会い。

最初はひどいダメージをくらったが、長じてからは、ちゃんと受け入れられるようになった。

今では源氏物語も大好きだし、「みをつくしてもあはむとぞおもふ byイケメン」は、夢見る乙女の恋の王道だと思う。

 

ただ、古典で教える際に、「藤壺光源氏の年齢差は5歳で、これは異常なことではないですよ」などというような、誰のためだかよく分からないフォローは、しなくていいと思う。

 

それよりも、これを初めて読んだ公達や姫君たちの、「ひょえー」という驚きに思いをはせたり、一歩踏み込んで、母子相姦の一大テーマに正面からぶつかったほうが、作品に近づけると思っている。