ルーブル美術館展
全体として、女性向けの細やかな心配りを感じる展覧会だった。
相性の良い作品と出会うと、「見る」を超えて「対話」が始まる。
今回、対話があまりに楽しい絵画に出会ったので、恥知らずとは知りながらも、思い切って批評家の真似事をしてしまう。
フランソワ・ジェラール 《アモルとプシュケ》、または《アモルの最初のキスを受けるプシュケ》。
1798年、186 x 132 cmの大作。
展覧会最後の作品として設置されていた。
見た瞬間に感じたのは、プシュケの瞳の静かさ。
何かの本に「凍り付いたような」とあったと記憶していたので、まなざしに冷たさがないことに、あれっと意表をつかれた。
(帰宅してから思い当たる本をいくつかひっくり返してみたが、そんなくだりは探し出せなかった。
もっと別の本だっただろうか。
思い出せないのではなく、私の捏造の記憶かもしれない。
こういう時、自分の頭は大丈夫かと、自己不信に陥る。
あの表情を、「凍り付いた」とは言わないよなあ。)
プシュケは静かにこちら、鑑賞者の後ろの方を見ている。
両手は胸の下でそっと組んで自身の身体にそわせ、足は足首のあたりで交差させている。
力みのない座り方で、膝は自然と行儀よく揃っており、育ちの良さを感じる。
そして今、まさに口づけを与えようとしている青年の姿のアモルには、髪一筋ほども注意を払っていない。
プシュケは、ひとりで十分満足して生きている。
たとえばもし、アモルを「消しゴムマジック」で消したとしても、絵のプシュケは全く困らず、その姿態は完全性を備えたままだろう。
彼女は自足して、そこにいる。
一方で彼女に愛を与えようとしているアモル。
この手が、素敵だ。
プシュケが驚かないように、怖がらないように、そっと差し伸べられている。
その口づけは、運命を変える決定的なものでありながら、蝶の羽のように軽いだろう。
肉感的なところが全くなくて(特にこの絵の前に、「ゲヘヘ」としか言いようのない笑いの響く絵画をいくつも見ているので)、その徹底した美しさにキュンキュンさせられる。
こんな風に、若く美しい男性から、宝物のように扱われてみたい、というのは古今東西の女子の夢だ。
口づけた瞬間、アモルは姿を隠して飛び去るだろう。
(神話上、まだ二人は、見つめ合うことができない。)
プシュケは、何かが触れたことに気付きながらも、それがアモルとは分からない。
そして舞う蝶を見て、「ああ、蝶ね。」と納得するかもしれない。
けれど、彼女の目の前に広がる世界は、一変しているはずだ。
のどかに広がる草原は相変わらず美しいのに、そこから大切な何かが、欠けてしまっている。
「さっきまではこんなこと、思いもしなかったのに。」と得体のしれない欠落感を、いぶかしく思うかもしれない。
アモルから愛を与えられたプシュケは、以前のように静かに座っていることが、もうできなくなる。
そう、自足しているプシュケは美しいけれど、「静かすぎる」という感じを、観るものに与えていた。
―プシュケの本当の人生はこれから始まるんだよ。人は、他人への愛を知らなくてはならないんだ。―
絵にメッセージがあるとするなら、こんな感じだろうか。
さらりと清潔感あるタッチが、見ていて疲れさせない。
ルーベンスみたいな、バターの匂いがしてきそうな絵の、対極にある感じ。
会場で呆けたように見入りながら、「他の人の邪魔だわ」と離れ、やっぱり「もっと見たい」とじりじり近づき、不審者もどきの態をさらしながら、心行くまで鑑賞した。
それにしても今回、私がこの絵に魅入られたのは、展示の力が大きい気がする。
「愛」をテーマに、女の子受けの良い絵と、女の子が「キッショ」と断罪する絵を、絶妙な配分で並べている。
甘いものの後はしょっぱいものが、しょっぱいものの後は甘いものが、よりおいしく感じられるように、快と不快の間を揺れて、最後に心を打ちぬかれた、みたいな感じ。
清く正しく美しく成長し、こんな風に愛を知ることができたら、最高に幸せだ。
まさに女子の夢の凝縮。
(女子の夢は一つではなくて、もっと違うあらまほしき恋はたくさんあるけれど。
女子は、特に恋には、欲深い。)
「愛を描く」展のトリを飾るにふさわしい一枚だった。