フリュギアの井戸

実生活では口にできないあれこれを、ひっそり井戸の底に落とします。

野戦病院

歴史のなかの自分を感じるのが、好きだ。

長い人類の歴史のなかで、他でもないこの時代、この場所に、芥子粒のように存在している自分を感じると、ワクワクする。

出来る限りのマクロな視点から、個として存立する最小単位の私へ、視点を移行させる。

そしてまた、この小さな私(いつだって、ここからしか思考できない)から、人類を眺めてみる。

歴史と生きている、歴史を生きている、と実感するのが、楽しい。

 

楽しいけれど難点もあって、歴史に記された苦しみに刺激され、気鬱になることがある。

 

戦争で亡くなっていった人たちの、苦しみや絶望。

被差別を、宿命として引き受けなければならなかった人たちの、悲しみ。

例えば、断頭台に上らされるときの重い足や、ガス室に連れていかれるときの、声さえ出ない恐怖など、我がことのように記憶している。

 

ノイローゼっぽく(?)なってしまうこともあるので、まずいと感じたら、自分の気持ちを、そこから引き剝がすようにしている。

人類の罪はイエス様が背負ってくださっているのだから、私ごときが余計な気を回さなくてもよい、と。

(やめればいいのに、それでもやはり好きなので、その手の資料に手を伸ばしては、同じことを繰り返す。懲りない。)

 

どんなことも、経験を積み重ねれば、得るものがある。

メンタルコントロールにだいぶ慣れて、引き返すタイミングを押さえるのが、上手くなった。

 

コロナ報道で沈まずにすんだのは、このためだ。

新型コロナウイルスアメリカ大陸に上陸したころ、亡くなっていった方たちの断末魔の息苦しさを、この身に感じそうになったことが、たしかにあった。

でも今までの経験があるので、その気配にいち早く気が付くことができた。

 

良くない方に傾いている自分に、「共鳴しなくていいよ」と命じる。

言って聞かせれば、すっと楽になる。

(簡単に、自己暗示にかかる。)

ディスタンス社会で実生活が楽になっているのもあって、あの頃は、落ち込むというほどのことはなかった。

 

なのに、ここにきて沈下した。

(あ、もう浮上してます。実質、2週間くらいの沈下だったと思う。)

ネットをうろつくことができなくなり、テレビもつけられない。

夜、眠れなくなり、朝は枕から頭を上げるのに、木の根を引っこ抜くような気力がいる。

 

原因は、「野戦病院」。

緊急医療施設を表現するワードとして、さかんに用いられていた(いる)。

これが、私には重かった。

 

野戦病院」という言葉には、膨大なイメージが付属している。

主に幼少期からなじんだ戦争文学の堆積が形づくっているので、それは先の大戦の日本のものだ。

(児童文学における戦争文学の割合は、大人のそれよりもずっと多い。

松谷みよ子灰谷健次郎竹山道雄

『ふたりのイーダ』の椅子は、今も私の世界のどこかで、足を引き摺りながらイーダちゃんを探している。)

 

 

小学校のころから、毎年国語の教科書には、太平洋戦争の作品が必ず一篇は入っていた。

義務教育を通して(すなわち少なくとも9年間)そうだったし、多くの日本人が「野戦病院」から想像するのは、太平洋戦争のそれだと思う。

(間違っても、『風と共に去りぬ』の南北戦争野戦病院ではない。)

 

この言葉が呼び起こすのは、だから例えばこういう感じだ。

 

耐えがたい飢えと、激痛。

暑さと、喉の渇き。

じっとりとまとわりつく、湿った空気。

ただよう腐臭と、隣人の呻き。

瘦せこけた衛生兵。

包帯すらなく、バナナの葉でくるまれた傷口。

自決用にそっと渡された手榴弾の、哀しい軽さ。

雪深い北国に生まれ、あるいは活気ある下町に、あるいは伝統香る街に生まれながら、遠い異国の地でこうして生を終えることをどう思えばいいのか、ぼんやりと言葉を探す。

密林の奥から聞こえてくる、もはや現か幻聴かも分からない、「天皇陛下、万歳!」の声。

 

見捨てられた南方戦線の記憶が、よみがえる(勝手に、自分の記憶になっている)。

 

そもそも夏は、死者が近い。

原爆忌終戦記念日日航機追悼式。

古くからのお盆もあるし、暑い夜に怪談話、という伝統もある。

現代を生きる私たち日本人は、暑さの中に死者を悼む気持ちを溶かし込んで、毎年夏を送っている。

夏の暑さと死者の気配は、分かちがたい。

 

ちょうど暑い時期に、「野戦病院設置」のかけ声、その言霊に喰われてしまった。

 

現在、野戦病院の名で呼ばれ、設置が望まれている臨時医療施設は、救命のための医療機器が揃い、医療従事者も配されたものだ(当然だ)。

そんな恵まれた環境で野戦病院とは片腹痛い、と戦争を知らない子供たちの、さらに下の世代の私は、思う。

野戦病院を、なめるな。

(立ち直ると、強気になる。)

 

むしろ今、「自宅療養」の名で、医療から切り離されている人たちのほうが、よほど野戦病院に違い状態にさらされている。

見捨てられた南方戦線で、命を落としていった人たち。

彼らはもう戻らないけれど、今、自宅で病床についている人たちは、救うことができる。

 

ここ数日は、選挙を意識した動き、報道が活発になってきた。

それはそれですごく面白いのだが、権力闘争を見せるほど、「今やるべきなのはそれじゃない」と、国民の反発を生む(と、ご本人たちも分かりきっているだろう)。

 

だからこそ、今がチャンスだ、と思っている。

総裁選、衆院選にかこつけて、で良い。

真に有効な施策を、頭を絞って提示していただき(マスク配布みたいなアレは、もう十分なので)、この社会からとりこぼされる人が、一人でも少なくなりますように。

 

 

 

医療従事の方たちのメンタルは、大丈夫だろうか。

私などより、よほど死者に近い場所で奮闘し続けて、もう1年以上。

深くふかく、感謝します。

 


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