神を殺した四人組
「神を殺した四人組」というのを、以前に聞いた。
それなりに流通している言葉だと思っていたが、ネットで検索してみたところ、見あたらない。
あれは独自の言い回しだったのだろうか。
キャッチーで時代性をよく表した言葉だと思う。
四人組というのは、以下の四名。
進化論で、創造主としての神を殺害。
宗教を「民衆のアヘンである」とし、覚醒と革命へのアクションを提唱。
「神は死んだ」と、哲学的神の死を宣言。
宗教を神経症へと還元、解体。
そういう時代だった。
私たちは今、神殺害後の時代にいるわけだけれど、さすが神様、やっぱり死んではいなかった。
宗教の持つ権力、影響力はかなり制限された(そして神様と以前より上手におつきあいできるようになった)けれど、神に救いを求める人間の心性は、古代から現代まで、基本的に変わっていないと思う。
たとえ特定の宗教組織に属していなくても、「困ったときの神頼み」は、今でも普通のことだ。
神様を本当に葬ったと言えるのは、たとえば世上の流行曲から「ねえ、神様」というようなフレーズが、一切消え去った時だろう。
それにしても喧嘩上等の、血の滾るようなあの感じは、フロイトやニーチェ、マルクスにも、共通している。
神様を殺そうとするくらいだから、それなりの勢いが必要なのかもしれない。
彼らは、それまで当然としてきたもの、「良識」に戦いを挑んだ。
真理に気づいてしまったら、戦わざるをえないのだろう。
そんな彼らが凡俗のヤカラと根本的に異なるのは、その知性による。
というのも、常に止むことのなく社会を騒がせる不正狩りが、ちょうど対照的だと思うのだ。
(急に卑近な話になるが。)
ネットでの悪口雑言の投稿や、抗議電話などだ。
「ゆきすぎた正義感」などとも表現されるが、あれらは正義など皆無の、加虐嗜好の発露にすぎないと思っている。
(「ゆきすぎた正義感」という表現は、よろしくないのではないか。ありもしない一分の正当性を、与えてしまう。)
あれら迷惑なものたちは、「良識」を信奉していて、「良識」の名の元に糾弾する。
物陰にかくれて攻撃するいやらしさは、匿名という攻撃方法だけでない。
「錦の御旗の下にいれば安全」的な、発想において卑劣なものを感じるのだ。
深く考察することもせずに(できずに)、正義漢気取りとは、片腹痛い。
「良識」に向かって果たし状を叩きつけた学者たちは、あれらとは肝の座り方が全然違っている。
だから、格好良い。
迷惑な人々にあるのは、知性の欠如、あるいは思考の不在。
ゆえに、人を傷つけるだけで、何も生まないし、誰も救わない。