フロイトの舌鋒と学問の面目
「信仰箇条は、確かに精神病の症状の性質を帯びているのだが、集団的現象であるがゆえに孤立という名の呪いをまぬがれているだけに過ぎない。」(『モーセと一神教』P145)
フロイトはこれでよく天寿を全うできたな、としみじみ思う。
『モーセと一神教』を読んで改めて思ったのは、フロイトは生涯、宗教と戦ったのだ、ということ。
「宗教を人類の神経症へと還元し、その巨大な力をわれわれが治療している個々の患者における神経症性の強迫的な力と同じものとして解明できるとの結論に研究が立ち至ったとき、われわれは確かに、われわれを支配するもろもろの権力の強烈な怒りを身近に招き入れてしまった。」(同P98)
そりゃそうでしょうよ、と思う。
神殺しを経た現代さえ、信仰心や信心は、とくに慎重に取り扱う必要がある。
なのに、「集団現象であるがゆえに孤立という名の呪いをまぬがれているだけ」って。
言い方を、もう少し、さ。
もともと、フロイトは忖度をしないお方だ。
そうでなければ、人が見ない振りをしていた心のうちを暴いてみせ、「無意識」と掲げてみせることなど、できなかっただろう。
「意識できないものが存在している」などという発見は、常人の頭では、できない。
みなが素通りしていたところで足を止め、ぐいと拾い上げてみせた、その慧眼と度胸。
今でこそ、私たちは無意識と呼ばれるものに慣れているが、当初の衝撃は、相当だったはずだ。
「ご自分では分からないでしょうけれど、あなたは意識下で、こんな(主に性的な)欲望を抑圧しているんですよ。」なんて言ったら、「失敬な!」と叱責されて、当然です。
でも、ここに学問の面目がある。
フロイトの喧嘩上等風の物言いは群を抜いているが、一般に学問は、「良識」を忖度しない。
むしろ、「良識」を疑ってかかる。
信仰深い人に、フロイトのもの言いは不愉快だろう。
自身を模範的存在と自負してきた人にも、無意識の分析は不愉快だっただろう。
学問の成果は、「良識」に安住している人を、傷つけることがある。
けれどそれは反対に、社会に合わせようと苦しんでいる人、「良識」に苦しめられている人を救う。
その苦しみは、個人に原因があるのではなく、社会にあるのだ、と指し示すことによって。
学術系書物(特に社会学)が、時にエンタメ以上に面白いのは、この点だ。
「良識」という名の偽善をあばいて断罪する、思考の名裁き。
その、格好良さ。
そうして得られた発見は、新しい知の地平を開き、本当の意味で人々を救う。
フロイトの精神分析が、のちに臨床心理となって、多くの人々に寄り添うように。