小説の醍醐味
誤読をされないように、本筋から逸れて議論がはじまらないように、丁寧に防御線を張っている学術系書物を読んでいると、「ご苦労様さまだなあ」と感心する。
言葉は数式などと違って、誤解の余地がありすぎる。
それでも、どこまでも言葉で肉薄するしかない学術系は、大変だ。
(不自由さを承知の上で、対象と切り結ぶ格好良さにしびれることも、いっぱいある。)
その点、小説は一枚上手を行っている。
言わずに語る、という手法だ。
小説の場合、そのまま言葉にはしない。
むしろそのまま言ったら、失敗。
「いじめはいけない。なぜならば…」と正面から書くのではなく、作品を通して「いじめはいけないよね」と読者をしみじみ思わせたら、大成功。
その意味で、小説の力を分かりやすく教えてくれたのが、太宰治の『十二月八日』。
大好きな作品の一つだ。
タイトルの十二月八日は、太平洋戦争開戦の日。
その歴史的な日に、日本の勝利を信じ、尽忠報国の決意を固める女性が主人公のお話だ。
だが、そんな表のストーリーとは真逆の皮肉が、作品の底から聞こえてくる。
「こんな戦争始めちゃって、おバカさんだね。お先真っ暗だね。」
太宰らしい、ユーモアにくるんだニヒリストのつぶやき。
でも表面上は文字にしていないから、検閲も取り締まれない。
むくつけに言葉にするのではなく、作品を通して示される作者の考え。
作者と読者がそっと微笑みをかわすような、親密さを醸している。
これぞ、小説の醍醐味だ。
言葉って、こういうことができる。
すごいなあ、とうっとりする。
日本の自然
伝統文化の手習いをしていて、先生たちには言えないけど思うこと。
外国の方に、自分たちの芸事を説明することがあるが、そのなかで「自然を愛する日本文化」というのが、よく出てくる。
でもこれ、欧米の人からすれば「?」だろうな、と思う。
山奥に自販機を設置し、海辺に看板を立てちゃう日本の文化が、自然を愛してる???
すれ違いのポイントはこういうことだと思う。
日本的自然=移り変わるもの
欧米的自然=人工のアンチテーゼ
よく手入れされたお庭でも、四季の移り変わりに自然を感じるのが、日本的感性。だから一坪の庭でも、里山の風景でも、そこに自然を感じる。
それに対して、人間の手の入らない、峩々たる山とかに自然を感じるのが、ヨーロッパ的感性。だから万年荒涼とした荒地でも、人の気配がなければ、それこそが大自然。
「自然を愛する日本文化」という説明で、先様に「この人たち、自国のやってることが分かってないのかな。」と思われそうで、私は言い訳したくなる。
「違うんです。日本人はあなたがたと違う文脈で、自然をとらえているんです。」
言葉の意味の中心が微妙にずれているのが気になって、私はこころの中で言い訳をする。
パブリックアート
見かけるたびに、ドキッとするのものがある。
東京ビックサイトの近くにある、クレス・オルデンバーグ氏の『Saw, Sawing』という作品。
巨大なのこぎりが大地に突き立てられたオブジェだ。
みんなあれを見て、何とも思わないのかな。
東京ビックサイトを利用するとき、その行き帰りで目にする。
あると分かっているので、そちらを見ないようにしているが、広大な空間に浮かぶ真っ赤な色彩、そして何といっても巨大なので、ふとした瞬間、目に飛び込んでくる。
地球に突き立てられた刃(しかものこぎり。ナイフなどよりよほど美から乖離したフォルム。その破壊力)。
一見して強い暴力性、攻撃性を感じる。
社会問題になっていないらしいので、おそらく嫌悪感をおぼえるひとはいない(あるいはごく少数)なのだろう。
イタリアのハイブランドの、着物の帯らしきものに足をのせる図像は、あっという間に議論の対象になったのだから。
作品そのものを否定しているわけでは、ない。
公共に展示するべきものなのか、と思うのだ。
たとえば美術館では、どぎつい現代アートを面白がったり、差別意識満載でも古典の美しさに耽溺したりすることができる。
会場の入口で、ここから先は別世界という心構えをしているから。
むしろギャラリーでは、すさまじいくらいのものを見ないと、来た甲斐がない、とがっかりするかもしれない。
良識を取っ払い、人の神経を逆なでして提示してきたものの見方に驚かされることが、しばしばある。
自分の盲点に気づかされて「ううむっ」とうなるのは、アートの楽しさの一つだ。
でも、パブリックアートは違う。
置かれているのは、平穏な日々を送りたい人々が行き交う空間だ。
日々の生活に、尊厳を傷つけるようなものを置きたがる人が、どれだけいるというのだろう。
パブリックアートとアートは、はっきりと別物だ。
アート作品を路上に出せば、パブリックアートになるわけではない。
パブリックアートという規範内での作品のみ、本当の公共芸術たりえる。
つくる人たちは、自分の仕事をしたのだろう。
仕事をしていないのは、周りの人たちだ。
つくる人は、良識より表現を先行させてしまうタイプなのだから、周りが社会との折り合いをつけさせなければダメでしょう、と思う。
街中でぎょっとさせられる作品は、他にもたくさんある。
「驚くべき」作品との邂逅は、まるで出合い頭の事故のように、日常生活のなかで突然起きる。
そして美術展のような展示終了の予定もなく、そこに在り続ける。
街中で、テロのような作品に出会うたびに、そっと目を逸らしながら思う。
表現は無限にあるのに、よりによってなぜこれを、世間様にお出ししているのだろう。
場所が必要
最近急に、思ったことを吐き出したいと思うようになった。
実社会では、無口なほうで通っている。
だが口に出さないだけで、頭のなかは普通に、思考がめぐっている。
程度の差こそあれ、たいていの人は同じだと思う。
自分のキャラから外れるので、意見を言わない。
あるいは周りの期待にこたえて、明るく場を盛り上げる。
求められる社会的役割を演じるのは、大人のたしなみだ。
私の場合、「おとなしい」という役割を期待されることが多いため、黙って微笑むことで自分の役をこなすことが多い。
これを長年繰り返しているうちに、本当に、考えを伝えることができなくなってきた。
今まで飲み込み続けてきた考えが蓄積し、自分の中で不完全燃焼している。
これら思考を、成仏させなければならない。
それにまた、最近考える力自体が、衰えてきたようにも思う。
ものを考える喜びが、このままが遠ざかってしまうのは、哀しい。
そういったことで、とりあえずはじめてみる。