不朽の名篇
「第一の魅力は、ソクラテスという唯一無二のキャラクター」と言うだけで、前回が終了。
好きなように語ったあと、ふと我に返ってみれば、その第一魅力のインパクトを超えるものはないかもしれない、と気づいた。
順番がうまくなかったかもしれないが、素敵なところはまだあるので、懲りずに続けたい。
魅力その2)作品舞台が、人類史に刻まれるあの裁判であること。
「哲学の父」とも言われるソクラテス。
でもソクラテスに、著作はない。
極めて稀だけど、こういう人生って、一つの類型としてあるのだろう。)
弟子のプラトンが書いてくれなかったら、偉大な哲人も、一時代の記憶にしかならなかった。
だがプラトンが書いてくれたから、私たちもソクラテスの息吹に触れることができる。
そしてプラトンが書く使命にかられたのは、師の死刑というショックがあったからだ。
尊敬する師が、よりによって死刑になるという事件があったから、プラトンは師を書き続け(次第にその思考も構築され)、それらは後世に残り、そうして哲学が営まれていった。
すなわち、哲学と呼ばれる数千年にわたる人類の営為の発生現場、それを押さえることができるのが、『ソクラテスの弁明』だ。
これを見逃す手はない。
魅力その3)笑いどころがある。
他の作品もそうなのけれど、プラトンは真面目に読んでいると、突然爆笑させられるところがある。
それもちょいちょい、結構な頻度である。
「その次第はこうである―私は偶然、他のあらゆる人が払った総額よりも以上の報酬をソフィスト達に払ったという一人の男に出会った。それはピッポニコスの子カリヤスである、彼は―二人の息子を持っていたので―私は彼にこうたずねた―「カリヤス君、もし君の二人の息子が仔馬か仔牛だったら、(後略)」(同書P17)
仔馬?!
突然、相手の息子を仔馬に例えたよ、この方。
(「例えば何々なら、どうだろう」というのは、ソクラテス&プラトンの十八番だ。)
上記引用は、徳とは何か、教育とは何かを考察している個所だ。
こちらも真剣に思考に乗ろうとしているのに、突然のぶっとんだ例えに、笑ってしまう。
プラトンをいくつか読むとこの飛躍にも慣れて、普通に読み下している自分に気づいたりする。
笑えるのは最初のうちかもしれないので、笑えるうちに思いっきり楽しんでおきたい。
魅力その4)劇作的な最後の格好良さ
文学と哲学のハーフのように感じることが多いプラトンの作品だが、特に『ソクラテスの弁明』の最後はドラマチックで、舞台あるいは映画の台詞みたいだ。
以下は、締めの部分。
「しかしもう去るべき時が来た―私は死ぬために、諸君は生きながらえるために。もっとも我ら両者のうちいずれがいっそう良き運命に出逢うか、それは神より外に誰も知るものがない。」(P59)
完全に決め台詞として、書かれている。
周りの人物たちが、すうっと遠くに退き、主人公のソクラテスに照準があてられる。
背景はゆっくり暗転し、差し込むスポットライトに、一人ソクラテスの姿が浮かび上がる。
そんな想像してしまうほど、この台詞回しは格好良い。
(前回の話だが、こんなところが、ソクラテスを英雄視させる一因なのかもしれない。)
ソクラテスの去り際を、かくも魅力的に描き上げた。
これは、亡くなっていった師への、プラトンの手向けだと思う。
魅力その5)「無知の知」を知ることができる。
いわずと知れた「無知の知」。
これに言及しようとするとめちゃくちゃ長くなるし、この本の魅力というより、プラトンのイデアとセットで考えてみたいので、別にまとめたい(できるのか、少し腰砕け。何となくある考えを、言葉に落とせるのか…)。
ただ、この『ソクラテスの弁明』を読めば、間違いなく「無知の知」に出会える。
ちまたに溢れる名言集的な解説で知ったつもりになるより、プラトンで直接出会った方が、間違いがない。
『ソクラテスの弁明』の魅力、こんなところです。
いや、小さくてもキラリと光る魅力が、まだ他にもある。
これだけ重厚なのに、短編(同書で正味わずか47ページ)、とか。
古代ギリシアの共和制(のちに絶対王政が行き詰った時、人類が手本にあおいだ政治形態)が、当時はやはり、すったもんだやっていたことが透けて見える、とか。
好きなものについての語りは、キリがない。
解説では、学術的作法にのっとった賛辞もおくられている。
「(『クリトン』『ファイドン』と共に)この世界史上類なき人格の、人類の永遠の教師の生涯における最も意義深き、最も光輝ある最後の幕を描いた三部曲とも称すべき不朽の名篇である。」
心からおすすめしているのが、分かると思う。
読んだあと、良い本に出会った幸福感がふつふつと沸き上ってくる、得難い作品だ。
未読のかたは、是非。
ソクラテスって、やっぱり只者ではないと思う。