目に映る社会が違う
バッハさんが、菅首相と小池都知事に五輪功労賞(金賞)を授与、というニュースを聞いた時、「い、嫌がせ…。」と思ってしまった。
だって、日一日と、選挙が近づいているこの時期に、そんな。
選挙では、「みんなと一緒」を演出するのが、定石だ。
田植えをしている有権者に、革靴が汚れるのをいとわずに近づいて、握手を求めたり。
風雨や酷暑のなかでこそ、街頭演説に精を出したり。
農家の隣人、サラリーマンの隣人を即興で演じて、ともに汗を流す感をアピールするのが、定番中の定番だ。
なのに表彰なんて、「みんなからの逸脱」に他ならない。
しかも「五輪の発展に寄与した」という功労賞(金賞!)。
コロナウイルスの感染拡大にみんなが慄いている、この時期に。
きっと、非常時のおもてなしのささやかさに、バッハさんたちIOC貴族の皆様は、ご不満であらせられたのだ。
ああ、残念だ。
でも、みんな、頑張ったんだけどな。
そう思ってしまった。
ご本人たちはまだしも、選挙対策の秘書さんや後援会さんたちは、一瞬顔が引きつったのではないだろうか。
当然、対立陣営は、出してくるだろう。
「感染拡大とは無関係と主張する例のイベントで、ありがたくも畏くも、表彰された人たち」と。
ところが、バッハさん銀座散策のニュースを聞いて、笑ってしまった。
この呑気さ。
オリンピックを賛否どちらとも割り切れない気持ちでいる国民の間を、そして不要不急の外出禁止令下の街中を、散策するバッハさん。
ベルサイユ行進に「パンがなければ、お菓子を食べればいいじゃない」と言ったマリーアントワネット、バスティーユ牢獄襲撃に「(僕の、狩り)成果なし」と記すルイ16世を、彷彿とさせられる。
隔絶感というか、情報が行き交う現代であっても、これほどまで違う現実認識が成り立つのだ。
認知バイアスは、人間の認識が、本質として持っている。
というか、バイアス無くして人間の認識は、成立しえない。
分かってはいるが、その乖離性を目の当たりにして、笑ってしまった。
そう、あの贈り物も、きっとバッハさん(たち)に、悪気はなかったのだ。
彼らの目に映る現実社会は、まだまだ明るく華やかで、心から「大変だったね、ありがとう」という気持ちを表現したかったのだろう。
(本当に感謝しているのであれば、そしてもう少しだけ気が利けば、本気の手紙を一通したためてくれた方が、ずっとありがたいのに、と思うけれど。
でも、彼らにとっては賞をおくるのが、一番の御礼なのだろう。
栄誉が欲しくてしようがない、という人は想像以上に、たくさんいる。)
そう、「嫌がらせ」なんて、失礼極まりなかった。
人の好意は、素直にありがたく、いただくものだ。
変に勘ぐる私の心こそ、卑しいバイアスにかかっていた。
バッハさんには笑ってしまったのだが、笑えないのが、こちら。
社会憎悪による犯罪の際、その標的によって、加害者の目に映る社会がどんなものだったかが、透けて見える。
秋葉原無差別殺傷事件の際には、犯行現場が銀座や六本木、あるいは高級住宅地ではなく「秋葉原」であることに、彼の認知する社会の偏狭さを感じた。
(その時は、経済的格差の一つの表出、と感じた。)
だが今回の、小田急線車内刺傷の彼の目に映っていたのは、女の子(だけ)だった。
「女子大生の勝ち組」なんて、私には矛盾ワードでしかない。
大学生は経済的自由も得ておらず、親からの自立も未だ果たせず、タスクが多くて自由と保障は少ない。
一生懸命きれいな格好をして、楽しそうに笑って見せていても、その立場は不安定で、(「恵まれた環境」とはいえるけれど)「勝ち組」からは程遠いと、私は思う。
でも、彼は違った。
女性は力が弱くて狙いやすいというのが、彼が標的を選んだ、主要因だろう。
だが社会的弱者は他にいくらでもいるのに(一般的な社会的弱者は、子ども、高齢者、障碍者だろう)、彼は女性、しかも若さを兼ね備えた女子大生を、狙った。
彼には女の子以外が、文字通り「眼中になかった」ように思う。
社会への憎しみが滾った時、彼はその社会を、目に映っている女子大生に、仮託した。
これは(経済的格差による社会の分断などではなく)嗜好による、視野の閉鎖性を感じる。
人々みな、目に映る社会は、それぞれに異なっている。
もちろん、私が認識する社会も、一つの偏った、いびつなものだ。
唯一の(お手軽な)正解などなく、一人ひとりが、一つひとつの社会問題を、冷静に自分の頭で考えてゆくしかない。
未曽有のパンデミックへの対応も。
人生への不満を、無関係な人への殺意で表現してしまう問題も。
被害を受けられた方の心・身体の傷が、一日でも早く癒えますように。